ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

ネット時代の詐欺師。十代で古典の読書経験がなければ、陰謀論や説教好きになる。

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ある人来りて、嘆じていわく。

 

人は説教をするのも聞かされるのも、大好きで、上から目線で、何かを言ってもらいたくて仕方がない。

よくある「陰謀論」も、その類で、説教を拝聴して、嬉しくて、あなたは知らないが私は知っていると、思いたい。
自分は人より優れていると、他人に思わせ、自分でもそう信じたい。

その気持ちにつけ込むのが、商売人、特に陰謀論を振りまく連中である。私たちは、一部の国際資本主義者に操られている、ユダヤロスチャイルド、ロックフェラー、天皇家その他云々が支配し、それに気づかされていない等の、事実判定不可の「説教」で、小金を稼ぐアレである。

 

私たちは、自分で考えることをせず、他人の言うことを頭から信じたくて仕方がない、それが楽であり、嬉しいのである。私は知っているが、あなたは、知らないでしょ、と自分一人だけで悦に入りたいのである。哀れな優越感、卑小な自尊心、ではあるが、それが人間である。電通が言ったとかの「世の中には想像もできないほどの馬鹿が、考えられないほどたくさん存在する」という言葉がどんぴしゃりである。

私たちは、自分の頭で考えない。自分で何かを考えるための、基礎教養となる古典を読んでいないのだ。受験参考書に記載された書名と著者名と怪しげな梗概を、うろ覚えしただけである。

だから、同じく、無教養ではったりで商売屋の塊である他人の、わかりやすい「断定する結論」のみを、頭から信じ込む方がはるかに楽で、それが、いつもの自分らしさなのである。

 

他人の言説を論証することが苦手なのは、日本人の特徴である。日本語がすでに論証向きではない。現にこの文章もそうだが、順序だてて論証せずに、一方的に決めつけると短文で済む。しかし、これは私のために書いているので、他人様に信じててもらうために書いているのではない。

 

最も憎むべきは、他人をだまして、一儲けしている輩たちである。私が、マスコミやテレビを蛇蝎のごとく嫌う所以である。しかし、これらはまだ害が少ない。害が最も大きいのは、ネットで販売する説教屋たちである。
コロナごっこで、人心はますます混乱した。スマホピコピコのネット人は急激に増大した。
紙の本を読んで落ち着いて考える習慣もなければ、訓練もなくなった。その場の反射的思い付きで判断するようになった。フェイスブック、グーグル、ツイッター以下、他人の心を操る網の目が確立した。もはや、これまでである。ビッグデータは、何でもできると考えているし、現にそうだろう。

大衆は馬鹿である、という説がある。その証拠を私たちは周りに見て、自分にも見ることができる。

馬鹿の馬鹿たるゆえんは、自分自身で文章を書かないことである。見るだけで、聞くだけで、せいぜい読むだけで、当該言説の批判分析ができない、したくない。面倒くさい。せいぜい要約ができれば上等で、それすらも感想文である。

いったい、本を実際に手に取って、中身を一瞥することもなく、宣伝文句だけの通販で書籍を買うなんて、どれほど愚かなことだろう。

YouTubeは巨大な広告サイトで、そこでは動画を販売する。この続きは有料、だの、大事なお知らせは有料会員限定だの、中学1年生ですら、その怪しさを笑って見抜けるような広告に、まんまと騙されて、大喜びで登録しカード番号を教え、口座から大枚引き落とされても、ご満悦、または泣きべそである。

ああ、どうして、こうも、私たちは愚かなのだろう。ずるく立ち回る乞食どもに、まんまと騙されるのだろう。

 

不安なのである。自分自身が本気で信じることのできる信念理想をもっていない。端的に言えば、自己のよって立つ識見がないのである。
無くても、もちろん構わない、ないのが普通である。ある人は珍しいとすらいえる。しかし、ヒトには常識があるはずだ。なんだか変だぞ、という感覚だが、いかんせん、真面目で騙されやすく、他人から説教してもらいたくてたまらない多くの人々にとっては、自分の持つ常識らしき感覚だけでは、物足りないのである。

ネットの言説を見る。ネットでおススメされた有料機関誌をとる。怪しげな言論人の講演会(もちろん有料)とやらに行く。ついには、ダイレクトメール、ダイレクト出版、デジタル配信まで、そのすべてが、ありえないほど高額であるにもかかわらず、喜んで、カード払いして、幼稚で証明不可の陰謀論を聞いて見て読んで、ご満悦である。

まことに不思議な心理だが、こういう人は、一様に、読書人の経験がなかった人である。驚くほど、真っ当な本を読んではいない。生真面目な受験人であって、十代二十代で、教養の基礎とされる古典を読んでいない。

 

日本人は騙されていた。戦争はユダヤの陰謀だった。日本人は悪くない、一部の暗躍する者どもに操作され誘導されていた。

こういう話が大好きで、事実は隠されていた、その事実は有料記事に載っている。一刻もはやく購読して目を覚まさなければ大変なことになるのだそうである。

そうか、それならば、千歩万歩譲りに譲って、よしんば仰せの通りだったとしようか。
しかしながら、それがどうした。それが、あなたやあなたの周りの人々とって何の関係があるのだろう。明日も、インフラは壊れない。明日も好物のスイーツを食べることができるだろう。ご近所さんも、いきなりゾンビになったり、消えたりはしない。

どうも困ったものである。例えば、多くのバリエーションがある「ユダヤ陰謀論」は、知っても無駄で、知らなくても無駄、それを叫んで商売する連中にとってのみ、ネタになる。そのようなゴミネタを、金銭を払って、耳打ちされた気になって、喜んでいるのである。

寂しい、さもしい、哀しい。
しかし、コロナごっこで頭の中が、ますます不穏になってしまったネット世代の多くのカモは、太った財布を手にして、ピヨピヨとうろついている。
大量の論証不可の言説を売るネット詐欺師どもは、今日も明日も、にんまりと「愚かなる大衆」を相手に、儲け続けることだろう。

恐々謹言。

 

とかいう話である。

小中学校での国語教育が、どれほど大切かの証拠になるだろうが、あの教科書と教員たちである。いかほどの国語教育が可能であるかは、想像がつく。

どうにもこうにも、困ったことだが、子供達には、ともかく、古典を読め、としか言いようがない。今生きている人の本を、読んではいけない。それらはすべてが商売ネタである。五十年百年の時間の風雪に耐えた本をのみ、十代のときから、じっくりと読むべきだろう。