ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

チャンスは逃すな。我事において後悔せず

某知人がいうことには、、、

私は若い時分、大手の教育出版社から単著の誘いを受けた。普通の教員なら、大喜びで応じるだろうが、あいにく、私は普通の教員ではない。傲慢な変人である。編集打ち合わせなら、そちらが、来いとまでは、思わなかったが、校内での行事やその他些末な出来事で、指定された期日に行かなかった。大馬鹿である。その後、とんと縁がなく、贔屓にしてくれた大物編集長も他界した。認めてくれていた大学の教員、研究者も相次いで他界し、もはや縁なき衆生となった。タイミングを逃したのである。あの時受けていれば、今では、数十冊は書いていただろうと、妻に愚痴るのである。冷ややかに笑われるのである。

こんなことを言うのも、過日、倉庫を整理していたら、故人である学者や作家からの手紙が、少数出てきたのである。ここに名を出すに及ぶまい。とは思ったが、こうして残っていたのも、縁である。挙げておきたい。『甘えの構造』の土居健郎、阿川弘之、山本夏彦、鈴木孝夫、稲富栄次郎他諸先生である。他にもあったはずだが、見当たらない。あの頃、自分は若く、意気軒高、何でも書けるの気概があった。幾年月過ぎ去って、もはや、万事急す、手遅れの始末である。

倉庫には、子供との教育実践や、文献批判の資料が多く残っていて、これを無駄にするのは、添付された子供の名文が残念過ぎる。せめて、実践研究物の形にして、残そうかと、手を付けてみたものの、全然、歯が立たないのである。もはや、根気も脳内体力も足りないのである。

つくづく、万物には、時期がある。仏教でいうところの機根である。タイミングである、年齢である、時期である、気力体力能力の横溢する頃である。

それが失われたのである。今更、何をしようというのか、どうすればいいのか。

、、、、、 

とかいう話である。

そりゃ仕方がないことである。能力と運とは、比例しない。正も逆もである。つまり関係ない。

某外国映画のシーンに、主人公のピアニスト志望の女子学生が音大で、ピアノ科の老教授と喧嘩する。女性は、教授に向かって、大学で教えるしか能がなく、ピアニストとして成功していないあなたから、指導をされたくない、と叫ぶ。老教授は、落ち着いて反論する。君は自分をピアニストとして成功すると思っているのだろうが、違う。そもそも音大に入る時点で、一流ではない、凡人だ。才能があるピアニストは、音大なんかには入らない、十代初めにすでに才能が開花しているはずだ、と。

いやはや、おっしゃる通り(かも)である。

愚痴る時点で、凡才である。しかしながら、私たちすべてが凡才なのである。凡才の集まりが人類で、そう思うのが、最も健康的である。

あの時ああすれば、ああしていれば、などと言うまい。ありのままの現在が、素顔真実なのである。武蔵は、「我事において後悔せず」と言った。