
AI生成動画がもたらす「理解した気分の消費」と、受け手としての「視聴者」の関係は微妙である。
AI作成の文章を読み上げるだけの動画配信者と、それを聞いてなんとなく分かった気になる視聴者の群れ。
「AIが作った文章をそのまま読むだけで、自身の知見や検証がない発信者」と「内容を深く理解せずに消費する視聴者」、そして「結果として理解した気分だけが広がる状況」が、急速に蔓延している。
AIの登場によって情報の量は爆発的に増加した。その一方で、発信者が内容を咀嚼せずに流し、視聴者も雰囲気で納得してしまうケースは確実に(しかも、大量に)存在する。AIが誤った情報を出力していても、それがそのまま拡散されるリスクもつきまとう。
しかし、視点を変えれば「AI作成文を読み上げるだけ」という形式自体が、必ずしも無価値とは言い切れない場合もある。長い論文やニュースの要約、専門分野の入門解説
情報収集の入り口等。これはこれで、物は言いよう使いようだろう。しかし、私はこれを好まない。その理由は、配信者の、自信たっぷりの言説だ。よくもまあ、AI調べのオウム返し、スタッフの作った作文を、厚顔無恥というか、自己主張欲というか。ほとほと、閉口するのだ。表面ばかりの演技の「はじけ」は、視聴者に、一種の精神的害悪を与えることになるだろう。不誠実の毒である。発信者がAIで作成した事実を隠し、さも自分の論考であるかのように装って評価や収益を得ようとする「不誠実さ」にある。
「理解しているフリをする文化」「知性の偽装」への嫌悪感を、全員が持つ必要がある。
AI以前の時代から、テレビの受け売りや本の要約、まとめサイトの転載など、同様の現象は常に存在していた。AIは、その速度と規模を劇的に加速させた。
最初から、AI作成であること(「AIで草案を作り、自分で加筆修正した」 「AIに要約させた内容の紹介」)、そして、本音は収益第一だ、と公言すれば、視聴者はその前提で、「コンテンツ」を眺める。しかし、そんなことを配信者がするわけがない。みんな自分の考えであり、発信だと、強調する。配信収益がこのくらいあった、とも言わない。
「私が徹底的に調べた結果だ」という態度を崩さず、実際にはAIの出力を丸読みしているだけだとしたら、視聴者は、疑念を持つだろうか。
いいえ、簡単に騙される。むしろ喜ぶ。人は、他人の言説に、自分をゆだねるのが大好きだ。そうでなければ、youtube動画があれほど流行るわけがない。何かを、一方的に言ってほしいのである。寂しいのである。弱いのである。嬉しいのである。
AIの文章自体は、誰でも生成できる。しかし、「何を採用し、何を疑い、何を捨てるか」というプロセスに、発信者の、精いっぱいの役目がある。その工程を放棄しながら、知的成果として売り出す行為は、卑しい。が、しかし、それを、視聴者は見破れないだろう。
どこまでが「自分の論考」で、どこからが「AI依存」かの境界線は、曖昧である。以前から、ライターや編集者、ゴーストライターなどの協力で、有名人または無名人が、発信することが多かった。だから、最終的な争点はAIの使用有無ではなく、「その人自身が内容に責任を持っているか」に帰結する、ともいえるだろう。しかし、金銭欲と売名とで動く、現代のほとんどの発信者には、通用しない。
AIの文章を丸読みしているだけの発信者は、リアルタイムの質問には答えることができない。根拠も示せず、誤りがあっても検証しない。彼らは、「知識」ではなく「知識があるように見せる演技」を売っている。しかし、こんな発信者は少ない。
もっと巧妙にAIを駆使し、配信専門スタッフ業者も協力または代理して、表向きの信ぴょう性を高めているし、逃げ道を、多く作っている。
そして、配信者の大ファンである視聴者が、応援する。寂しく孤独な視聴者は、生身の人間が、言葉と表情とで、画面の向こうから「自分だけに」語りかけてくるのが、嬉しく楽しく、生きる「救い」ですらあるのだ。
とりあえずは、パソコンやスマホにかじりつく生活を少し休んで、たまには古典をじっくりと読んでみるのはどうだろう。知らんけど。