ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

万一の不本意な進学先でも、頑張るが吉である。

 

日本の中学や高校の多くは、国公立である。

公立の中学高校では、どこに入学するかで、子供の生活に大きく影響する。

影響するとは言っても、都内に散在する、名のみの「有名大学」の卒業生の、区々たる就職先のことではない。

およそ人間性そのもの、その後の高校または大学への、意欲と方向性、つまりは社会の中で生きていく、一種の流れのようなものを作る心因的影響のことである。

「そんなことは関係ねーよ、私は私、俺は俺、どこに行こうと上等だぜ」なんて子は、それもアリである。自由にアニメを見るもよし、PCゲームで怒鳴るもよし。

 

いつの世も、世間の人の99パーセントは、ごく弱く、環境にどっぷり影響される存在である。コロナ騒動ごっこを見るまでもない。

まして、経済力のない、自律できない、不安定で、未熟で、世間知らずで、出来上がり中途の野菜か芋みたいな、まさに字義通り、幼くも若い人間。それが中学生高校生である。それがどうして、入学先で影響を受けないわけがあるだろうか。

中学進学は、小学校とちがって、自由選択の幅が広がる。よくよく吟味して、選ばなければならない。

完全に自由に進学先を選べる高校に至っては、どこに入学するかで、天地雲泥天国地獄の逆転、恐ろしいことになりかねない。

能力のない教員、どんよりした生徒、殺伐とした教室という収容室、そこでうじうじもやもやびくびくふらふら悩んで生活するのは、なかなかの訓練というか修練というか鍛錬というか、恐怖というか怠惰怠慢暗雲暗澹たる毎日または、それに対応するべく柔軟なる毎日ではなかろうか。

 

そこでの生活が4月から待っている君、まあ、安心せよ。

朱に染まらない布はない、とやら。すぐに慣れる。

 

若い時分、勤務先の小宴会で、出席は5人にかかわらず、台湾風の満漢全席で、およそテーブルの脚が折れんばかりである。

「イヤーこれ食べ(ることができ)ますかね~」

先輩氏「ゆっくり食べれば溶けるよ」

なるほど、3時間程度ですっかり食した。

時間がたてば、すべては慣れる。可塑性という言葉があるが、あれは動物の生きる知恵である、本能である。どんな環境にも、やがては適合する。

最適化する作戦はある。自分を強く持つこと。かけがえのない自己であることへの自信と確信とプライド。言葉では虚しいようだが、いえいえ、誰でも生まれつき強く持っとるわな。その証拠を、他人にも自分自身にも、常に見ることだろう。

だから、若い十代の君は、悠々にっこり笑っていればいいのである。どうせバラ色にも、ブラックにもならない。曇天雨交じり時々晴れだろう。

決まった進学先で、これを良縁と考えて利用する。なんといっても、大切な日々を過ごすのである。現にある場所で、生きて行く。人はこれまでも、そうしてきたし、今もそうする。これからも、それしかない。

 

 

私立高校の怠慢が身を亡ぼす。私立高校や公立高校の「不本意入学者」。

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公立学校は親方日の丸だから、教職員(教育公務員)の身分は安泰である。勤務校が、統廃合その他の理由で、消えてなくなっても、転勤すればいいだけのことである。

勤務校の閉鎖は、行政の判断だから、教員個人からすれば、一つの「思い出」にはなっても、無関係である。責任を感じなくても済む。学校経営の主体は、地方公共団体または国である。教職員個々人が、仕事を失うことにはならない。

一方、私立学校は、創立者(経営者)が勝手に決めた建学の精神とやらがある。採用、昇進、人事すべてが、各学校の好き放題ができる。その代わりに、独立の私企業である。中には、中小の零細企業と似たような資金繰りの場合もあるので、被雇用者の身分は、常に保証されているとは限らない。

ところが、困ったことに、勤務している本人は、私立高の裏側の実態を、自覚していないし、自覚したくない。教員としての身分は安泰だ、と勝手に勘違いしたがる。
私立学校が、特に大学や高校のそれが、学校によって浮き沈みがあるのは、学校経営者の無能というより、私立学校教員の油断と怠慢に、ほとんどの原因がある。

親は、金を払って、子供を私立学校に行かせている。趣味ではなく、将来への投資である。
その投資に見合った結果が出なければ、いまさら退学させるわけにもいかないから、一応、卒業はさせるが、怨念は残る。噂は風のように広がり、いずれ、学校の評価が下がり、弛んだ実態が明らかになるだろう。
そうなると、年ごとに、入学希望者が減る。受験生の数が激減して、非常事態である。
理事会一同、真っ青になっても、もう遅い。
一度落ちた評価を元通りにすることは、評価を上げ続けることよりも、もっと難しい。

私立学校の役目は、いったいどこにあるのだろう。
例えば、公立中学校卒業生の進学先は、
国立大学付属高校、公立・私立の高校、国立専門学校、私立専門学校、私立大学付属高校他、種々あるけれども、多くは、公立高校または私立高校に行く。

第一希望が公立高校の場合、ほとんど希望通りに進学できる。運が悪かった場合を考えて、進路指導担当は、極力、浪人を避けたいので、ランク下の私立高校を受けさせておく。子供本人からすると、いわゆる不本意入学者である。
子供本人が、納得したかどうかは不明だが、現実に大きな混乱もなく、第二希望だった私立高へ入学する。公立校の試験に落ちたのだから、仕方のないことだと、割り切ることができたのだろう。

しかし、当該私立高校の在校生が、公立高校の不合格組、不本意入学者ばかりになってしまったら、学校内の士気は落ちるのではないか。
これは、私立高校に限る話ではない。公立の場合も、実力以上の高校に受かることもあれば、石橋をたたいて渡ったのに、落ちることもある。落ちることを極度に心配して、数段下のランクの公立高校を受ける場合もある。これも、不本意な進学であろう。
結局は運である。または、本人の中学3年間の毎日の努力如何の結果である。嘆いても詮無きことかもしれない。その場その場で、次の段階への努力を続けることが大切である。

 

ところで、どういう魂胆からか知らないが、私立高等学校の授業料が無償化に近づく。私立離れを防ぐための姑息な手段だが、年間授業料を考えたことがあるのか。すでに、公立高校は月1万円、私立でも月3万円程度である。私立3万を、安いとみるか高いとみるかは人それぞれだが、一流校なら安すぎるし、そうでない私立校なら高すぎる。

他に高等学校奨学給付金という制度がある。授業料以外の雑費だが、これは対象が保護者である云々。

教育実績のほとんどない、経営の杜撰な私立学校は、潰れるに任せればいいのではないか、というお話である。

 

 

 

 

 

 

医学部は偉大なり 職業選択の不幸と受験ゲーム

某人曰く。

男の幸せは男にしか分からず、女の幸せは女にしか分からない。

男の幸せは職業にある。多くの不幸は、職業選択に原因がある。男は仕事で悩む、仕事に迷う。そこに、すべての不安不幸不吉不足不便不測不適不遇不満の原因がある。
さて、男の職業で最高は医者である。

医者の子は、職業選択を迷わない。医者は代々医者である。医者は家業であり稼業である。
子供にとっても、親にとっても、職業が生まれたときから決まっていることほど、嬉しく安心できることはない。
よって、効率よく、学校選択ができて、学業をどうやらこうやら終えて、通例通り、医者となる。


人性の不幸は、職業選択の失敗からくる。というより、何が自分にとって、適正かつ妥当かつ最適解なのかが、分からないことにある。

奴隷は生まれた時から、奴隷である。奴隷は、自分が奴隷以外のなに者でもないことを知っている。だから奴隷であることに疑いがない。一生奴隷であることに満足して、そして死ぬのである。「奴隷の幸せ」である。

奴隷も、医者も、職業選択を迷わない。間違わないということが、一番大切なのである。
医者は仕事として、かなりよい。むしろ、最高と言ってよい。

人は自分の命が惜しいから、生命健康を害する病気や怪我を、何よりも、恐れている。さあ、そこで医者の出番である。
人々が、医者を大切にし、ありがたがるのも、無理はない。あなたを生かすも殺すも、医者次第であるから。

この、安全安心快楽富貴敬意を確実に得ることのできる医者とは、なんとありがたい職業ではないか。その仕事が、生まれた時から約束されているのである。

男の不幸は職業選択のミスにある。女の不幸は女が語ることだろう。

とか云々。

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さて、極端な話はさておいて、受験ゲームの調子はどうだろう。
中学高校大学等の入学試験は、一種のゲームであることは以前書いた。ゲーム選びと、その勝敗とは、後の人生に大小の影響を与えることは、間違いない。

並の凡才なら、医学部が、やはり固い。二浪までなら、全然余裕で後々、ペイできる。
いや、事情が許せば、そして、この件に関しては、あらゆる事情は許されるべきだと思うが、3浪までしてでも、医学部に入った方が、知人の言を待つまでもなく、吉であろうと思われる。

 

現代文授業の要は問いの発見 読解指導の方法論 圧倒的な国語力

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国語教科書を、古文や漢文のそれと区別するために、現代文と呼ぶことがある。
現代日本語の文章だから、現代文なのであろうか。そのまんまで芸がない。

 

文章は、読み手が一読してたちまち理解させるように書くのが、書き手の義務である。
ああでもない、こうでもないと、文章をひねくり回さなければ、何が書いてあるかが、さっぱり不明な文章は、そもそも、読む価値がない。
とはいえ、試験がある。

難解とされている「文章」を、読み解くには、ある種の能力が必要であるから、その能力の有無、大小を測って、より潜在力の高い人材を求める、というのが建前である。これを、俗に、頭がよいと言う。ならば、現代文読解の試験は、頭の良し悪しを測る絶好の方法となる。

大学の数学科は、頭の良い子供が集まるというが、本当か? 勤勉で小才が効く連中が多いのではないか。数学は才能だ、などというが、それはトップ中のトップに該当する言葉で、大方は暗記でつなげてきた連中だ。数学は暗記である。最優秀の子供にとっては、数学は詩である。

 

本当の意味での頭の良さは、言葉に関係する。読解能力を試すのが、手っ取り早い。疑問の向きもいるだろうが、次の事実がある。フロイトは優れた実践的学問の巨人であるが、彼の本領は文章にある。読書の基礎に立った文筆力である。

唐突だが、シェイクスピアがそうだろう。プラトンがゲーテが、デカルトモンテーニュパスカルカントヘーゲルが、ええい面倒だ、結局、言語がすべての思想の源流である。

となれば、日本語国語科が、もっとも基本かつ重要であって、教えるにも学ぶにも、全力を傾注すべきことに、疑う余地はないだろう。


私たちはだれでも、母国語でまず考える。日本人は、日本語で考える。その日本語国語を扱う教科は、これはもう唯一無二にして崇高偉大である。

とまあ、興奮しても仕方がないが、現代文の授業は、かくも大切な時間である。

 

さあ、どうやって授業をすればいいだろうか。
私は現代文の授業の担当教員が、その子供時代を通じて、国語科の成績が、トップだったと信じたい。私は、教員が児童生徒学生時代に、一度も首席を取ったことのないような輩は、教員ではないと信じるものである。

国語の極めて優秀な子供が長じて教員となり、国語科を教えることが望ましい。
他教科ならば、その教科が得意でなくても、当該科目の免許さえあれば、どうにかこうにか、教えることができる。
しかし、国語は、現代文は、ちと違うのではあるまいか。

 

では読解授業のやり方である。とはいえ、これも、簡単に説明できるような代物ではない。スマホブーム、ネットブームは、簡単直截な回答を求める傾向にある。しかしながら、授業方法は個々の教員の能力に依存するから、一律の答えはないのである。

 

学問は、自問自答に極まる。
古人曰く。如何如何と問わざる者我これをいかんともしがたきのみ。
問いを自ら発することが、学ぶことである。問いは、すでに答えを予想している。

とはいえ、これを学習者にいきなり求めるのではない。こうなるように、仕向けてやるのが授業である。

読解授業とは何か。つまりは、教員が問いを発し、子供が答える、これに尽きる。

次には、子供に問いを発明発見させ、その子供が他の子供に、問うのである。そうなれば、教員は傍らで座って見ていればよろしい。
こういう授業こそが、そしてこれのみが、子供の学力を上げる。
この方式は、小学生から大学院生に至るまで、およそ国語科授業の鉄則で、難しいことではない。
しかし、教員自らが問いを発明できないようでは、国語科教員として論外である。

 

そういえば、各教科には指導書という、不気味なものがある。教科書会社が作成した分厚い冊子で、教員たちの、神聖にして不可欠な常備品である。これはおかしい。
授業は、個々の教員が教科書を利用して進める。教科書以外に軽率な手引きなど不要である。教員自らの頭で、指導すればよろしい。教科書が気に入らなければ、自分で副読本を作成すればよろしい。
いったい何が指導書だろう。教科書会社は、以前から現場の教員を馬鹿にしきっているが、現実として、指導書に頼る教員ばかりだから、仕方のないことかもしれない。

 

話を戻して、授業での、問いの一端を示そうか。
問いは、教材によって、教員によって、子供によって、時代時期によっても変化する。どころか、授業当日の子供や教員の体力知力の状態によっても違う。

授業中、その場で、問いを、一瞬のうちに発見し発明し、発することが、望ましい。一晩かけて準備するのは、子供の方であって、教員ではない。
ここまで言っても、分からない人もあるだろうから、例を示す。字義通り一例である。某教材某日某時間某学級の、常に変化する問いにすぎない。

鴎外『寒山拾得』 なぜ「真っ青な顔」で立ち尽くしていたか
漱石『こころ』  なぜ私は先生に近づいたか
秀雄『人形』    車窓に何人の顔が写っていたか

以上は、知人の記憶による。

問いの数は不定である。しかし、短い教材文でも百を超えることはなく、数十を下ることはない。

問いは単純だが、簡単ではない。裏の裏がある。答える子供の状況で、刻刻変化する。各ページ各行で、いくらでも生まれる。子供に教材を読ませている時、問いの答えを検討している時、問いが問いを呼ぶのである。
これはと思う問いを、教科書に書き込んでおいてもよい。
瞬間の流れを大切にするために、あえて白紙で臨むのもよい。
クラスによって差が出ることを気にするのなら、同一の問いでもよいが、それには及ばないだろう。担当の全クラスを、そのクラスなりに向上させればいいだけである。教員も教材も同じなら、自然とそうなる。期末試験のクラスごとの平均点を気にするようでは、素人である。どうせ学年トップは、あなたの担当するクラスである。

問いは、既定せず、その場での発案であることが要である。知的にわくわくする授業は、意外性にある。
教員自身に、圧倒的な国語力が必要とされるのは、以上の理由による。

恐々謹言。

 

 

効果的な小論文指導はどうするのか 高校教員の悩み

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小論文指導について。

高校教員が小論文指導で悩むのは、高校の教員としての能力が足りないのに、教員になってしまったことが原因である、と誰かが言った。たぶんそうだろう。

しかしそれでは、話が進まない。第一、真顔で能力を問うならば、高校及び高等教育機関で教鞭をとることのできる人物が、いったい何人いることだろう。
大方の高校教員は、不足する能力資質を、時間と努力とで乗り切ろうとしているし、現に乗り切っているようにみえる。

小論文とは、大学入試等で出される、「論文」らしきもので、設題に沿った作文のことをいう。

その指導を、高校では、主に、国語科の教員が受け持っている。
ろくに本も読んでいないような高校生相手に、文章を書かせる訓練をするのだから、さぞかし大変だろう。
そこに付け込んだ出版社が、教員向けに、小論文指導法だの、子供相手には、小論文必勝法だのを売りつける。商売だから当然だろうし、実際に売れているようである。

文章は一夜漬けで書けるようにはならない、であるのにもかかわらず、無理を承知で「指導」するのである。お疲れ様。

今から、最も効果的で、簡潔簡単な小論文指導方法を述べる。
教員向きではあるが、子供にも役立つだろう。


小論文試験は、現実の入学試験時間中に、初見の設題で書くのが正規である。あらかじめ設題が示されているものや、AO入試とやらの「談合入試」もあるが、それにしても書くべき文題があるわけで、それに沿って書かなければならない。というより書けばいい。設題はむしろ味方である。

設題の内容がちんぷんかんプンな場合であっても、ともかくも日本語で書かれている。当該題目については、誰にでも、多少の知識があるはずである。書くべきは、知識ではない。どのような設題でも、料理できる能力があることを示せばいいのである。
つまりは、論文指導とは、子供の文章力をつけることであって、その他は無駄であり、無用である。

教員も出版社の類も、無知または商売上の利益から、各志望対象の学校学部専攻に関連する内容の知識や書き方が必要だと考える。
大間違いである。
基礎知識は、まさに最低限の常識を知っていればいいのであって、医学工学法学文学教育心理等々云々の志望だろうが、関係ない。
設題に対して「思うところ」(知識ではない)を、適切妥当簡潔簡明な文章で書くことができるか。これが合否の分かれ目である。

したがって、教員の指導目的はただ一つ、当該受験生の「瞬発的な文章力」を高めることである。
なんだそんなことかと言われそうだが、現にそんなことだからこそ、難しい。

分野別に特殊な小論文があると勘違いするからこそ、教員が迷い、子供も苦しむ。
どうせ、試験採点者等が読み手の「作文」である。彼らの読解レベルに合わせて、書いてやればいい。設題提示者の望む類を書けばいいだけの話で、それ以上でもなければ以下でもない。
新説を出して、目立とうとするのもよし、当たり前に書いて当たり前のように合格点を得るのもよし。書き手次第である。どう書いたって、おのずと力量は出る。隠しようがない。

では、どうすれば、子供の文章力を高めることができるのか。

詳しい説明をすれば、それは自慢になる。読んでも嫌だろう。あなたが、あとは考えるしかない。

とは言い条、簡明簡潔簡単効果的な小論文指導方法を、ちょいと説明しようか。

その指導とは、教員による、子供を目の前にした「授業時間中の推敲」に尽きる。

400字詰め原稿用紙を配る。テキトーな設題を板書する。
「この設題で、20分以内に、380字以上400字以下で書くこと」「書いたらすぐに前に持って来い」。

教員は黒板の前の机に座って、文庫本でも読みながら、待てばいい。
最初の生徒がやってくるだろう、その場ですぐに赤ペンで最重要な部分のみを手直しする。口頭で注意もする。一人当たり30秒以内。指導中に次の生徒が来たら、後ろに順番に待たせておく。当然、次の生徒にも、教員の注意は聞こえている。というより、教室中に響いている。
生徒は注意を受けたら、新しい原稿用紙を受け取り、諸注意を踏まえて、再び書く。書いたらまた指導を受ける。
これを時間内に、何度でも、繰り返す。40人の生徒で、2時間連続授業で、一人当たり、4回は、少なくても2回は、添削できる。

嘘だと思うだろう、または、そんなことかと思うだろう。
左様、そんなことである。これしきのことができないようなら、「小論文指導」は無理である。

 ところが、不幸なことに、ほとんどの高校教員にとって、これしきのことではなさそうである。

できないのである。

それはなぜか。

 

続く。

センター試験の後は白熱の進路指導会議 芸術学部は楽しからずや

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以下は、いつの記事だったのか、定かではないが。

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今週末は、センター試験がある。
センター試験が終われば、多くの高校で「進路指導会議」が忙しくなる。

試験の結果をにらみつつ、あの子はどこがいい、この子ならどこに行ける、なんて卵のSMLの仕分けではあるまいに、押し込む器の選りわけに余念がない。
最終受験校を押しつけられても、生徒は、不平を言うかと思えば、妙に納得して、収まるように収まってしまう。

大学入試は、高校のメンツをかけた戦いでもあるから、担当の教員団も、ひときわ熱が入る。
本校からは浪人を出したくない、どこか遠くでも構わないから国公立大学に突っ込みたい。
その土地の人間でも聞いたこともないような、○○県立大学だの○○市立大学だの、あんな所に大学があったんだ、というような全国津々浦々まで、中小の大学がある。
遠隔な地なことも、学部がみょうちきりんなことも、一人暮らしで金がかかるだろうことも、委細構わない。そこに受験させて、なんとか通らせたい。

あれやこれやの策を弄するのだから、いずれどこかに引っかかる。
引っかかったのを確認して、どうやらこうやら高校の冬は終わるのである。そして、新入学の4月になるのである。

しかし、肝心の教員連中に実力がない大学に、行かせたところで、いったいなんになるのだろう。
学問は、優秀な師があってこその、進歩であり、学びの場所である。
とってつけたような大学教員と、どんな時間つぶしをして過ごすのだろう。
少しばかりやる気のある子供も、すぐに遊び惚ける無為の徒となる。
あたら4年を費やして、その挙句、何十枚のエントリーシートの空欄を埋めるのが、関の山である。

それでも、しかしながら、「大学教育後進国」である日本の現状では、名のみとは言え、大学は大学なのである。区々たる学歴に頼るしかない人材で、あふれかえっているのである。
だからこそ、ご苦労にも、進路指導会議は明日も明後日も続くのである。


少し話題をかえようか。
やっとのことで、または偶然に、あるいは成り行きで、大学生になった。そんな学生にも、趣味の学部は格別の楽しみなのだろう。

某「一流」大学芸術学部の卒業制作展覧会に行った。
どうにもこうにも、頭が痛い。
日本画は指導教官がそれなりの人らしく、指導が厳しい。子供の作品も、まあ見ることができた。
洋画の多くは、我慢をしさえすれば、なんとか見ることができた。
彫塑は、鑑賞に堪えない。ちゃんと教えたのか?
現代表現になると、もはや、「お笑い」の域である。
これは、当該大学だけの問題ではない。先の大戦以後、現代芸術は、頭高手低で、能書きばかりは立派だが、肝心の作品は小粒というより、下劣なものになった。
名ばかりの「現代芸術」を、もとより未熟な学生が真似をするものだから、「作品」にならない。参観者に失礼である。

現代美術は、作品そのものではなく、コンセプトを売る。作品の美的価値ではない。このように考えて作りましたとさ、のような口先の説明が、価値あるものとなった。
芸術は概念になったのである。目で見るのではなく、その前にまず、作者の動機を理解するものに成り下がったのである。

それにしても、芸術学科は、子供には、相変わらずの人気である。

厳しい競争の末に、やっとで入って、さあ卒業というとき、そこそこの技能があればまだしも、ほとんどの卒業生は、教員に採用されれば万々歳、そうでなければ、デザイン会社や関連の職場を求めて奔走する。なかなか、うまくいかない。
もとより、真の才能に恵まれた子供は別物で、これは一種の天才だから論外である。

 

小さいころから絵をかくのが好きな子がいる。上手である。絵を、描いて描いて、親にねだって、美術科へ進む。親も何を勘違いしたのか、あらぬ妄想で「子供の好きにさせます」とかなんとか。
まあ、これはこれで、親子ともどもお幸せ、と言おうか(ただし金はかかる)。

芸術学部の子供は、在学中、心底楽しんでいる(人がいる、または人が多い)。勉強が(あれが、勉強とするならば)、楽しいのである、自分から進んで、やるのである。
思えば、幸福な「学生さん」なのである。
そこに、東京芸大や、各芸術学部の人気の高さの秘密がある。
構内の学生の顔も、その多くは生き生きして、感じの良いものだった。

ありがたさに、合掌、