ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

中学教員・高校教員は、「教科」や「生徒指導」に逃げ込む。小学校教員はスーパーマン。

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同じ居酒屋に何度か行けば、なんとなく、その店の内情がわかるものである。
従業員同士が張り合って、その挙句、仕事を辛いものにしている店を、稀にみる。
どの職場でも同じことで、みんながもう少し利口になればいいものを、変なところで張り合ってしまう。

 

中学校や高校の教員は、苦労している人とそうでない人との落差が大きい。
しかし、頑張ればいい、というものでもない。苦労は少ないほうがいい。
十分な識見や必要な授業構成力が足りない、だからガンバレではない。
教員として授業力・指導力が不足するのなら、焦って苦労しても、無駄である。
外科医を考えよ。執刀技術の未熟な者が、胸部大動脈瘤の緊急手術を失敗した。「でも、ぼく、がんばりました」ですませられると思うか。
むしろ、優秀な技術を持つ医師の、淡々とした手術で、その患者の命を救ったほうがいい。手術中の鼻歌も構わない。

「子供に厳しく学力をつける」という意欲があるのか、現実の授業で工夫して行っているか、行おうとしているか、である。続ければ、少しは上手くなるだろう。子供の学力を、多少なりとも高めることができるだろう。

しかし、これがなかなかに難しい。だれでも、安易に流れる。中高教員が自分に甘えて、授業がいい加減になるのには、原因がある。

第一に、「教科担任制」なので、教科の中に逃げ込める利点がある。
英語の教員の授業がどんなに下手でも、音楽の教員が、英語教員に文句を言うようなことはない。
理科の教員に向かって、体育の教員が、「見るに堪えない授業だ」と批判することは、まずないだろう。親も、美術の教員に向かって、「お前の数学力がどうのこうの」とは、言わないだろう。

ところが、小学校ではあり得る。大いにあり得る。日常茶飯事である。
というのも、小学校教員は、何でも屋であることを義務づけられている。
男女を問わず、採用試験にピアノの実技があり、歌わされ、平泳ぎクロールまでやらされる。鉄棒や100メートル走をさせるところもある。一般常識に加えて、英数国理社家庭科音楽図工体育等、教科の知識がまんべんなく必要だ。

幼稚園教諭から大学院教員の採用試験にいたるまで、これほど、多数科目を課されているのは、小学校教員採用試験の他にはない。スーパーマンも顔負けである。
幸運なことに、小学校教員は、実際に「スーパーマン」が多いし、そうであることを期待されている。まことに恐ろしい職業である。

第二に、中高等学校の教員の授業には、多くの人の監視の目が行き届かない。
お山の大将である。小学校に比べて、中学校に政治活動に熱心な組合員が多い理由の一つである。
この傾向は高校になると、もっと顕著になる。以前は、教員組合に入らずば人間にあらず、という扱いを受けた。非組合員は同僚から影に日向に意地悪をされた。韓国シナ朝鮮ソ連の同志達に、親愛なる情を持っていないような不届きな教師は、たちまち学校から追い出された。

ついでに言えば、高校教員は実力以上に、プライド過剰になりやすい。たまたま、採用先が高校であったに過ぎないのに、義務教育とは違うんだ、と変な意識が先に立つ。
授業の下手なことは、中学校教員より甚だしい。
下には下がいるもので、高校教員よりもっとひどい授業をする輩がいる。いわずもがな「大学教員」である。


授業は、小学校教員が上手である。そうでなければ、学級をまとめることができない。
子供の興味関心を刺激しながら、基礎を無理なく教えて、知的なものへの憧憬を育て、よりいっそう高い段階へと引き上げる。こんな授業は、ある種の「芸術」ともいえるだろう。
あなたが、小学生の時、そんな授業を体験したのかどうか。または、あなたが現職教員なら、そんな授業ができるかのどうか、は知らない。だが、実際にそんな授業をする教員が、たくさんいる。

第三に、中高教員が、自分の学力や授業技術の現状に鈍感であり続けるのは、生徒指導という「強い味方」があるからである。
特に、中学生の親は、我が子に手を焼いている。世間も、中学生は難しい時期だ思っている。だから「生徒指導で忙しい」という逃げ口上は、おおいに使える。
定説に乗っかっていさえすれば、並か並以下の授業をしていても、世間や同僚や親をごまかせる。
しかし、学級の子供をごまかすことはできない。子供は、教員の実力をはっきりと見破る。だから、教室が荒れるのである。荒れるはずである。

教員の現状を見ると、多くの場合は、納得できることだろう。