ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

みんな同じが大好き 学習努力の差が子供の将来を惜しみなく奪う

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以下は、かつて書いたものである。


学級の学習の到達度を上げてしまうと、不快に思う親がいる。分かりやすく言えば、子供の学力を伸ばすと、不安に思う親がいる。

熱心に教え、その成果が子供に現れる。学級全体の学力が上がって、良いことづくめのようだが、そうではないのである。他人の子供と同様に、我が子が、同じように伸びるのか、どのくらい伸びるかどうかが、心配なのである。

我が子は、確かに勉強ができない(というよりも、怠けて勉強しない)。その事実が、はっきりと表に現れるのは嫌なのである。
この感情は、理解できなくもない。


以前は、子供は平気で、親が平気でなかった。やがて、子供の学力が伸びるにつれて、親もすぐ平気になった。他の子が我が子以上に急激に伸びたとしても、我が子も以前より伸びているのだから、親は満足した。
ところが、近頃はそうでない。自分の子供だけが、ほかの誰よりも伸びていないと落ち着かない。我が子だけが伸びて、他の子供は、現状維持または墜落の方が、安心で満足する親がいる。不思議な心理である。

自分の成績ならまだしも、友達の成績を、ぐちぐちと気にする子供がいる。自分の不勉強は棚に上げて、成績をごまかしておきたいのである。当然、親もなかなか平気になれない。
そんな親に限って、授業は、最低レベルの「指導要領」通りでよいし、それ以下でもかまわない考える(低レベルの授業の別名は「基礎基本を大切にする授業」)。
子供それぞれの能力の違いを認めたくない、自己満足の中で泳いでいたい。出来不出来が目立つよりは、みんなができない方がいい。能力の差を目で見たくない、曖昧なままにしておきたい。
それもわからないではない。これもまた、親心であろう。

しかし、時間は遠慮なく流れる。子供同士の差は、大きくはなっても、小さくなることはまれである。
しかも、日に日に、教育現場の環境は変わる。良い方にならいいのだが、多くは、悪い方に変化する。

子供や親の傍若無人、児童生徒学生の低学力の放置、お粗末至極な教科書、教育事務所職員の若年採用から来る頼りなさ、低予算の学校施設の貧弱さ、教員の日々の長時間勤務とそれに比例する効率の悪さ、一部マスコミ受けする広告塔教員のお調子ぶり、不景気で荒む親の精神、その影響を受けた子供の気持ちの荒み、結果として、教員のますますの余裕のなさ、定見もなく、その場しのぎが目立つ文科省の腰抜け連中の増大等々。
良いことは、なかなか見つからない。

学校現場では、今でも、近隣諸国への迷惑だの、子供の人権宣言だの、同和の精神はどうしただの、チマチョゴリ万歳だの、各種各様の運動にご熱心な教員が多くいるのだろうか。多分、地下に潜んでいるのだろう。時勢が合わなくて表に出さないだけで、風向きが変われば、いつなんどき噴出するかわからない。

 

子供の学力の現状も油断できない。個々の能力の差違は、遠からず階層の差違となる。
公立中学を手始めに学校はすべて自由選択性になる。どれを選んでも、どうせ公立校だ、大した違いはないだろうが、小さな一歩はそのうちに大きな亀裂となる。
遠慮会釈のない大競争がやってくる。

いつまでも、「思いやりを第一に教えています」では、だめである。きれい事を全面に出していさえすれば免罪符の、そんな呑気な時代はとっくに終わっている。

親に言っておく、ついでに子供にも、よく言っておけ。
能力優先の時代である。
建前ではなく、本音の時代は、もうそこに来ている。
勉強のできる子供(勉強をする子ども)と、できない(しない)子供とは、目の前の世界が変わってくる。

以上は当然のことであるが、今までは、そして今でも、これは面と向かって言えなかった。嘘つきになるしかなかった。
しかし、明日からは当たり前になる時代が来るかもしれない。公然と、能力で振り分ける時代がくるかもしれない。

その是非を言うのではない。遠からずそうなる、と欝々するのである。