ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員は、何事につけても、苦しみ悩む仕事である。気楽な授業、同僚との戦い。

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教員は、何事につけても、苦しみ悩む仕事である。その一方、マイペースでお気楽で安楽な仕事でもある。
その差はどこから来るのだろう。

幼稚園小学校中学校高等学校大学大学院等の勤務先による、職種による、担当教科による、教員の能力による。つまりは、種々の要素が絡まって、楽する人、苦労する人、発狂する人、病む人、定年前に辞める人などの、差がでてくる。中でも、もっとも大きな要因は職場の人間関係であるが、それはさておく。


親は、我が子のことだけしか、見ていない。
仕方がないというより、当然である。
満足できない我が子に対して、親である自分にも責任があると考えてよさそうなものだが、全然、考えない。自分及び我が子以外の、何者かが、悪人だと決めつける。
子供も、自分も正義であって、悪は他人の方だと考える。

学校では、担任教員が悪者である。あるいは「ろくでなしのクラスメート」達が害虫である。
この「思いこみ」を、聞きかじりの「教育論」「学習論」の味付けをして、学校へ乗り込む。教育事務所へ匿名の電話をする。電子メールを送りつける。

事務所職員(教育委員会指導主事、管理主事)は、わはは、と笑って対応するかと思ったら、そうではない。
はじめ真っ青になって、その後、いまいましそうに舌打ちして、教員や校長に、「注意」「指導」をする。事実関係を文書にして出せ、地域の理解を得よ、と生意気を言う。

そうは言っても、注文の多くは、親の戯言である。まじめに取り合うのが馬鹿らしい。

大人ならそう思うところだが、学校現場は、そうではない。極めて厳粛に受け止める。畏まって反省させていただく。


煙の立たぬところには火はない、親の文句や投書にも、いくばくかの道理はあるのだろう。
教員は、人間相手の仕事である。しかも、生半かな仕事ではない。
今時の親の子を、たくさんまとめて、面倒を見ているのである。
どこかには隙も出るだろう(その隙が教育上大切でもあるのだが、ここでは述べない)。ミスもあるだろう。
些細なミスであっても、絶好のターゲットとなりうる。
隅をつついて、大喜びである。

当該教員を攻撃するときは、周囲はすべて敵となる。行政教委校長同僚親子供までもがよってたかって、当該教員を痛めつける。はははと、笑って済ませることができる豪傑ならいいが、そんな人なら、最初から教員なんてなりはしない。大概ここで、教員は死ぬか辞めるかする。

教育事務所職員らも同情の余地がある。保身こそ命である。親からの突き上げは、学校現場にいなくても、怖いのである。彼らには、自身の能力に関係なく、学校及び教員を「監督」「指導」するという「名目」がある。周囲の覚えめでたく、教頭または校長で出たい。あるいは、役所内でちょびっとでも、役職の階段を上がりたい。
せこいと言えば、それまでである。あれも人情である。


どこかに救いはないのだろうか。

ないといえばないし、あるといえばある。
簡単な方策の一つは、仕事範囲の確認である。
必要なことを明確にして、それ以外のことをしない。雰囲気や得点稼ぎで、守備範囲を広げることをしない。やるべきことを明確にして、それのみを、着実にする。

とはいえ、これができない。できるような豪傑または鈍感な人は、そもそも教員になってない。教員は、繊細で神経質な仕事でもある。たまに豪胆ぶっている教員もいるが、見せかけである。本音でそうなら漫画になる。

学校教育の守備範囲の逸脱が、教員の苦しみ悩みの、大きな原因である。

 

ただいささか。

親は我が子のことしか見ない。それはそれで正しい。

と同じく、人は誰でも自分のことしか見ない。見たくない。職場で、我が身を助けるためなら、すすんで他人を犠牲にする。あなたの職場でも、同じだろう。

弱肉強食が世の常で、教員もそうか。たぶんそうだろう。

 

〇 随想録の邦訳は、これが一番いい。大部の一巻か、分冊を選ぶかはそれぞれだが、私は下記を重宝している。

モンテーニュ随想録

モンテーニュ随想録