ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

小林秀雄の居酒屋 無視は最大の否定 国語 評論文 受験指導

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コロナ騒動寸前のことだったか。

ある夕刻、某立ち飲み居酒屋で飲んでいると、隣の中年客が生ビールをあおりながら、盛んに記事初校に朱を入れている。
社の机上ならともかく、帰りがけに一杯やりながら、左手にコピーをもって推敲とは乙じゃないかと、ひょいと覗いてみた。楽々読める。
話せる相手とみて、数分語ったが、彼が言うには。

「善いところを見つければいい、悪いところは言う必要がない」
これは件の校正文章のことではない。小林秀雄の話題である。

小林は文章の魔術師で、読者を酔わせてしまう。読者の益にならないこともあるが、芸達者だった。などと言う私への、彼の反論である。


先日、若い子が訪ねてきて、「美しい、楽しい、美味しい」しか、聞いたことがない。都内に暮らしている若い勤め人は、前向き思考で、楽天的だ。だから、暗い世相にも耐えられる、と話していた。

 

ボケ防止のために書いている当ブログの文章は、ほとんどが批判否定の趣があるが、本音では肯定して誉めているつもりである。
どこがだ、と叱られそうだが、人は興味がなければ、誉めるどころか批判すらしない。
嫌いだというのは、好きだということと、ほとんど同義で、関心があるから、無視できないのである。

小林本人も、好きだから書く、好きなもの以外には、興味がない。この世で一番の否定は、無視することである、などと書いていた。

 

私は中学生の頃から、熱心な小林秀雄の読者だったから、ずいぶん損をした。この意味、お分かりであろう。
国語の受験技術には熟練したが。


小林秀雄を、蛇蝎のごとく嫌っていた渡部昇一や谷沢永一を、今は、読む人がいない。完全に忘れ去られた。それもそのはずである。

ついでに言えば、亀井勝一郎、河上徹太郎、吉田健一、近くは吉田秀和、加藤周一などの評論業者もたくさんいたが、すぐに忘れられた。

 

小林はこれからも永遠に読まれ続けるだろう。曖昧模糊独断偏見自己愛の文章であろうとも、惚れた対象を愛をもって語ることのできた達者な芸人であるからだろう。

森鴎外の史伝からヒントを得たであろう『本居宣長』は、何度読んでも、いつもの小林音頭に過ぎない。踊りたければ踊るがいい。

 

本家の鴎外の、いわゆる史伝三部作のなんと見事なことか。私は、『渋江抽斎』を若いころ斜め読みしたくらいだが、今日、落ち着いて再読三読している。素晴らしさに圧倒される。

 

さて、この十年か、数十年か、近年の国語教科書掲載の文章がひどいことになっている。平成令和にいたってますます酷い。駄文悪文の山どころか、臭気芬々たる汚物の塊である。あんなものを若い読者に強制的に読ませるなんて、これほどの悪逆非道はない。無視するに限るといいたいが、子供は教室で無理やり読まされる。入試の国語問題にも、うじゃうじゃ出ている。とんだ災難である。

 

初出 20210428

改訂 20230901