ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

国語嫌いを増やす国語教科書。お粗末な学校図書館。大半の本は、ゴミである。

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国語の教材には、日本の古典、漢文の他に「現代文」がある。明確な定義はないが、明治以後の文章のことであろう。
教材の現代文は、よい文章ばかりとは限らない。つまらない文章がある。これでも日本語かと疑うような、ひどい文章もある。

その文章を細切れに、微に入り細に入り、読み解いていくのだから、ご苦労なことである。中学三年間、高校三年間、そんな授業を受け続けていると、ほとんどの子供は、国語が嫌いになる。

国語の入試問題を調べると
中学、高校、大学と、問題文がどんどんひどくなる。大学入試現代文など、何を言いたいのか分からない文章の連続である。
簡にして要を得た文章は、問題に使えないのだろう。希代の悪文を選んである。
悪文を読み解くのだから、難しいに決まっている。難しければ、入試問題として最適である。悪文読解の訓練に、中学高校の国語は費やされている。

文章は、分かりやすく、一読して、さっと意味が分かるものがよいのである。読書百偏意自ずから通じると言うが、百偏読まなければ通じないような文章は、現代文ではない。暗号である。現代文は、そもそも百回の通読に耐えない。

現代文の問題作りは難しい。定期試験が近づくと、国語教員は、数学教員を羨む。
数学はいかにも、問題がすぐできる。採点も短時間で可能である。次には、物理、化学、生物などの理系教科が、その次には、歴史、経済などの社会系教科が楽である。美術音楽体育等の類は論外とする。

国語科は、そうはいかない。
問題作りに、七転八倒である。夜中の二時三時までやっても、まだ不安である。おまけに採点が面倒だ。夜なべの連続である。

とはいえ、国語科は日本語を扱う。中でも現代文は、現在の口語を扱っている。
言葉は思考の道具でもあるから、疎かにはできない。
国語日本語は、毎日、聞いたり話したり、読んだり書いたりしている。実際生活と馴染みがもっとも深い教科である。それが、難解で、面白みもなく、嫌になるような代物では困る。

指導の難しさで、教員が悩むのは勝手だが、肝腎の子供を、無益に苦しませてはならない。



国語教科書の文章は、独立してあるわけではない。多くは、既存の堕本からの切り抜きである。さもなくば、編著者と称する雇われ人の即製の短文か、取り巻き子分の短い文章を載せる。
唾棄すべきものである。語るに落ちるが、これが教科書の実態である。国語嫌いが増える原因が、教材文にあることは明白である。

教科書には、屑文章ではなく、簡潔明快で、品位ある文章を選択しなければならない。日本語のリズムの美しい文章を、学ばせなければならない。
ごくまれに、一流の文章を載せることがある。鴎外漱石敦直哉などで、そこだけが絶壁のごとく輝いて、読む人は、これは国語の教科書だったのかと、はっと気づくのである。


本は身銭を切って買え、などと言うが、実際、身銭を切るほどの本は、そうそうあるものではない。
コーヒー1杯分ほどで新書が買える。しかし、新書の大部分はゴミである。
買え買えと言う者は、たいがい、自分の本を買ってもらいたいがためで、互いが誉め合って、売り上げを伸ばそうとするのは、下品かつ浅ましい。

過日、本を整理をしていて、つくづくゴミ本が多いと、思い知った。
ゴミでないのは、これは私の師匠みたいな方々の書物で、師匠は何人も要らない。
その他の堕本は、缶ビールのごとき。飲めば、カンは捨てるしかない。溶かせば再利用できるだろう。書籍もそうか。

学校図書館は、税金で本を買うから、駄本の山である。
二ヶ月くらいで寿命の切れそうなパソコン関連の本を、ハードカバーにして、学校に買わせる。ほとんど詐欺である。
担当教員も知識がないものだから(しかも、学校は、地域の本屋と特別な結びつきのあることが多い)、書店員任せとなる場合もある。
個人が、身銭を切って厳しく本を選んで買っても、ほとんどゴミになるのに、他人に任せて、「学校図書館」の蔵書を購入するのは、子供に腐った肉を食べさせるようなものだと、嘆息する人がいた。
教科書も学校図書館も、恐るべき駄本で埋まった。もはや臭気を放っている。