ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

センター試験の後は白熱の進路指導会議 芸術学部は楽しからずや

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以下は、いつの記事だったのか、定かではないが。

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今週末は、センター試験がある。
センター試験が終われば、多くの高校で「進路指導会議」が忙しくなる。

試験の結果をにらみつつ、あの子はどこがいい、この子ならどこに行ける、なんて卵のSMLの仕分けではあるまいに、押し込む器の選りわけに余念がない。
最終受験校を押しつけられても、生徒は、不平を言うかと思えば、妙に納得して、収まるように収まってしまう。

大学入試は、高校のメンツをかけた戦いでもあるから、担当の教員団も、ひときわ熱が入る。
本校からは浪人を出したくない、どこか遠くでも構わないから国公立大学に突っ込みたい。
その土地の人間でも聞いたこともないような、○○県立大学だの○○市立大学だの、あんな所に大学があったんだ、というような全国津々浦々まで、中小の大学がある。
遠隔な地なことも、学部がみょうちきりんなことも、一人暮らしで金がかかるだろうことも、委細構わない。そこに受験させて、なんとか通らせたい。

あれやこれやの策を弄するのだから、いずれどこかに引っかかる。
引っかかったのを確認して、どうやらこうやら高校の冬は終わるのである。そして、新入学の4月になるのである。

しかし、肝心の教員連中に実力がない大学に、行かせたところで、いったいなんになるのだろう。
学問は、優秀な師があってこその、進歩であり、学びの場所である。
とってつけたような大学教員と、どんな時間つぶしをして過ごすのだろう。
少しばかりやる気のある子供も、すぐに遊び惚ける無為の徒となる。
あたら4年を費やして、その挙句、何十枚のエントリーシートの空欄を埋めるのが、関の山である。

それでも、しかしながら、「大学教育後進国」である日本の現状では、名のみとは言え、大学は大学なのである。区々たる学歴に頼るしかない人材で、あふれかえっているのである。
だからこそ、ご苦労にも、進路指導会議は明日も明後日も続くのである。


少し話題をかえようか。
やっとのことで、または偶然に、あるいは成り行きで、大学生になった。そんな学生にも、趣味の学部は格別の楽しみなのだろう。

某「一流」大学芸術学部の卒業制作展覧会に行った。
どうにもこうにも、頭が痛い。
日本画は指導教官がそれなりの人らしく、指導が厳しい。子供の作品も、まあ見ることができた。
洋画の多くは、我慢をしさえすれば、なんとか見ることができた。
彫塑は、鑑賞に堪えない。ちゃんと教えたのか?
現代表現になると、もはや、「お笑い」の域である。
これは、当該大学だけの問題ではない。先の大戦以後、現代芸術は、頭高手低で、能書きばかりは立派だが、肝心の作品は小粒というより、下劣なものになった。
名ばかりの「現代芸術」を、もとより未熟な学生が真似をするものだから、「作品」にならない。参観者に失礼である。

現代美術は、作品そのものではなく、コンセプトを売る。作品の美的価値ではない。このように考えて作りましたとさ、のような口先の説明が、価値あるものとなった。
芸術は概念になったのである。目で見るのではなく、その前にまず、作者の動機を理解するものに成り下がったのである。

それにしても、芸術学科は、子供には、相変わらずの人気である。

厳しい競争の末に、やっとで入って、さあ卒業というとき、そこそこの技能があればまだしも、ほとんどの卒業生は、教員に採用されれば万々歳、そうでなければ、デザイン会社や関連の職場を求めて奔走する。なかなか、うまくいかない。
もとより、真の才能に恵まれた子供は別物で、これは一種の天才だから論外である。

 

小さいころから絵をかくのが好きな子がいる。上手である。絵を、描いて描いて、親にねだって、美術科へ進む。親も何を勘違いしたのか、あらぬ妄想で「子供の好きにさせます」とかなんとか。
まあ、これはこれで、親子ともどもお幸せ、と言おうか(ただし金はかかる)。

芸術学部の子供は、在学中、心底楽しんでいる(人がいる、または人が多い)。勉強が(あれが、勉強とするならば)、楽しいのである、自分から進んで、やるのである。
思えば、幸福な「学生さん」なのである。
そこに、東京芸大や、各芸術学部の人気の高さの秘密がある。
構内の学生の顔も、その多くは生き生きして、感じの良いものだった。

ありがたさに、合掌、