近所の大学は、多くの大学の例にもれずに、相変わらずコロナ閉校を決め込んで、閑古鳥である。そのくせ、学生からは普段と変わらず、しっかり授業料を分捕っている。
大学は仕事をとっくに放棄している。それでも、職業としての大学教員に魅力を感じている子供が多い。人は快楽を求める。故に、大学教員は「善き」である。
ほとんどの教員は、自分たちの給料が職責の割には安い、と言う。
間違いだ。
アメリカでは、教員は基本的に薄給である。
大学教員もそうで、博士があふれている。全米の大学に仕事を求めて、ポストを得るために動きまわって、運のいい者は、ようやくゲットできる。
一部の例外を除くと、給与は本当に安い。共稼ぎでようやく食っていける。それでも、大学教員になりたくて仕方がない。
理由は、おいしい仕事だからだ。おいしすぎてほっぺたが落ちるくらいだからである。 給与の少ないことなんか、問題にならないくらいの利点が、満載である。
実質労働時間の少なさ、社会的ステータス、丸秘男女付き合い、趣味に生きることができるなど、これ以上のお気楽商売はない。
日本の大学教員は、米国大学教員よりも、もっともっと恵まれている。恵まれすぎている。
大学に常任職を得るまで、なんやかあったであろうことは、推察される。苦労はそれなりにあったかもしれない。
その分、その後の人生が安逸を貪るバラ色天国である。目出度い。お目出度すぎる。
以上では、何のことかわからない人もいるだろうから、もう少し書く。
日本の学生も、近年、大学院進学希望が増えてきた。理科系など、軒並み増員である。
アカデミックポスト、略してアカポスは、院生たちの憧れの職業である。互いに牽制しつつ、切磋琢磨して、あの大学この大学と業績表を送りつけて、職探しに余念がない。
ゲットしてしまえば、もうこっちのものである。大学側からは、雇った教員の首を切ることができない。学問の独立だそうである。眠たい教授会や各種会議もどきの時間つぶしを適当にのりきって、幼稚な学生を遊び半分で相手にしていれば、定年どころか、75歳くらいまで楽勝である。
文系は、法学部がつぶしがきく。
しかし、いまどき、苦労して法科大学院を出て司法試験に受かったところで、先行きは暗い。検察や判事になるのならともかく、弁護士では、いそ弁から始めて、バタついて、それでも儲けが出るかどうか、怪しい。
こんな折、やっぱりアカポスは魅力である。
少し勉強のできるらしい、そこの君。悪いことは言わない。アカポスを目指したまえ。
さて、話を変える。
小学校教員こそが、先生らしい先生である。給料分の、またはそれ以上の仕事をする、せざるを得ない、仕事である。だから、世間から先生と呼ばれて、恥じるには及ばない。
小学校高学年の学習習慣が、その子供も一生を決定することが多い。
だから、学校で、毎日、子供達を、直接、指導する立場にある学級担任は、計り知れないほど重要な存在だ。
まさに、本当の「教師」であり、「先生」である。
先生という言葉は、大安売りになっているが、本来の「先生」という呼称は、「教師」と「医者」との二つにしか当てはまらないのではないか。
学級担任の中でも、特に小学校最後の学年である6年生の担任は、決定的な影響力を持つ。
だから担任教員達に言いたい。勝手な夢想は止めて、最低限学ぶべきことを、しっかりと教えてくれ。学習習慣を叩き込むがいい。
難しく考えることはない。利いた風な美辞麗句を使う必要もない。そんなことは、能無しの指導主事だの、大学学部の偽で暇な「教員」に任せておくがいい。
空理空論は、政治家と大学教員との専売特許である。
具体的に言おうか。
小学校高学年を例とする。
「教育漢字が書ける」こと。
「計算問題をきちんとノートに計算できる」こと。
「はきはきと音読できる」こと。
この三つだけでも完全に指導していたら、よほどのことがない限り、高校三年までの授業に十分対応できるだけの学力をつけたことと同義だ。
だから、以上をきちんと教え込むことのできる教員が、今、一番必要な人材である。信頼と尊敬とを受けるに値する教員と言える。
以上を、すでに実践している「先生」ならば、以下のこともすでに実践済みだろうが、書いておく。
国語科と社会科とに関しては、
1.日本の歴史を、暗いイメージで、周辺の国々に遠慮したような(チャイナやコリアにごまをするような、弱みを握られているような、つけ込まれるような、米国に頼り切ってしまうような)教え方をするのではなく、日本の文化や伝統を大切にした、母国に自信の持てる、明るく、誇りの持てる力強い内容と方法とで、授業を進めること。
2.日本のことばや文章を大切にする。日本の古来からの歌や文章を紹介指導する。
和歌や俳句や古文などの名歌名文に親しませ、書き写させ、朗読暗唱する時間を確保する(国語や道徳や、「総合的学習の時間」とやらを利用する)。