ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

真面目過ぎて損をする。国語教員の勘違い。king Gnu、宇多田ヒカル、miletなど。

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国語は教えるのが難しいが、それ以上に、教員の愚かさが目立つ教科である。
無論、愚かなのは、国語科教員に限らない。それを言えば、数日かかる。

教員は、すべからく中学高校生時代に、少なくとも一度は、学校の成績トップの経験が必要だと、以前のべた。
理由は、察してくれ。人の子を教えるのである、昔のことであっても、優れた学力または問題解析能力があったことを、証明せずして、何の教員だろう。

中でも国語科の教員は、他教科と違って、教員の資質で、教育成果に、天地雲泥の差が出る。首席経験のない教員が、国語を教えるなんて、片腹痛い。


こんなことを、わざわざ言う理由は、能力不足の教員がデフォルトで、国語力をつける教員は千人に万人に一人も見つからないからである。

以上ですら、理解できない人もいるだろう。嘆くな、怒るな。その方が幸せなこともある。


国語科教員は、内容を教えるのではない。国語である、日本語である。普段使っている言語だから、わかって当然、わからなければ病院に行ったほうがいい。だから、「私は今朝パンを食べました」なんて、教える必要はない。
何を教えるかと言えば、分析と表現とをである。

その具体的な方法の一端は、以前の記事を読んでもらうとして、実は方法さえもが、一義的でない。各人各様、万策あっていい。
あなたが、中高校生時代に、成績1番だった経験があるのなら、言わんとするところが、わかるはずだ。場と時とに応じて、好きなように、思うようにやって、それで十分に効果が出ることを、知っているだろう。

例えば、特上の料理人は、レシピなんて不要である。
あり合わせの食材で、その場限り、客人限りの、料理をいきなり作って、一流の味を出す。二度とその味が出ない。出す必要もない。その日その時その体調に応じて、最高水準の料理を作る。楽に悠々と余力を残して作る。

国語の授業も、そうあるべきで、いやむしろ、それしかない。

国語科の授業で、事前配布プリントだの、生徒の提出物の確認だの、教科書出版社の手引書、参考書問題集、外部講師の招聘他種々、やたらと手段方法や準備に時間をかけたところで、効果はない。断言する。効果は皆無である。
せいぜい、生徒の国語嫌いを増進するだけで、国語力をつけるどころか、無能にさせるための時間つぶしでしかない。


話を変える。

某パーティで、ある人が、カラヴァッジオが云々と。フェルメールを口にしなかったのは、美術教員のプライドだったのだろう。何でもブームがある。
古人は上りの3年、上って3年、後は下るだけだといった。ファンはどこでもいるもので、有名というだけで、のぼせ上がる。

NHKと称する腐敗した独占企業も同様で、ごみ以下の俗悪低俗悪質な番組を無理やり有料で垂れ流しているが、けしからん話である。あんなもの、全国民がボイコットして当然だろう。

 

流行歌では、king Gnuが面白い。リアルで聞くに堪えるからで、CD音源だけが取り柄のような、有象無象の自称「あーちすと」等には、うんざりだ。

ついでながら、宇多田ヒカルが出てきたとき、Mariah Carey のコピーのようだと思った。それでも、声が善き、である。
近ごろ売り出しの、milet(ミレイ)とかも、SiaとNorah Jones を足して3で割ったコピーのように感じる。宇多田ほどの声質ではないので、その分、歌い方にいっそうの工夫をして、テクニックで目立つしかないとの自覚は、米国に育って、エンタメ競争の厳しさを知っているからだろう。そういえば、宇多田も若いころ、米国にいたのだったか。