ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教科書の駄文。教員の授業力は、充実した教科書と明快なノートでわかる。

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充実した教科書を使って、ちゃんと教えることができれば、一人前の教員である。そんな教員が多く在籍している学校が、立派な学校である。
ところが、教員を云々する前に、肝心の教科書がお粗末至極なのだ。
これほど教科書が駄目な国は、少ないのではないか。

どう駄目かと言えば、すべてが駄目なのである。嘘だと思うなら、教科書を扱っている本屋で、片端から見るといい。

顕著なのは、小学校の国語科と社会科とである。理科音楽図工云々は、もともと教科書なんて、あてにしていないから、今はおく。
中学や高校の教科書の粗末さは、もっと最悪で、長くなるので、これも言わない。
大学に至っては、大学教員兼売文屋のでっちあげがほとんどで、そもそも「教科書」と呼ぶことすら憚られる。


手元の小学校国語教科書を覗いてみよう。
日本の伝統と歴史文化とを等閑にして、日本人を日本人でなくなるようにさせたい。根無し草にして、近隣諸国の属人に貶めたい。こんな怪しい情熱が、露骨である。
意図的に仕組んだものでなければ、これほど悲惨な教科書は、作ることはできない。

国語の教科書ならば、掲載の文章が、そのまま教科書の価値であるのに、この世のものとも思えないほど下劣な文章を平気で載せる。というより、羅列する。
流行作家の売文や、編集者が声をかけて書かせたであろう類の駄文の集積である。内容もなく、文章の力がなく、リズムがなく、いい加減で、何人かででっち上げた汚物。多少でもあるべき思想の片鱗すらなく、あるとすれば下品なステレオタイプのつぶやきである。
これでは、子供を拷問しているようなものである。
音読みさせてごらん、子供はつっかえつっかえ苦しそうに読むだろう。

それでは、図書室から、中島敦志賀直哉荷風森鴎外を持ってきて、いくつか読ませてごらん。子供は、きちんと心地よくリズムに乗って音読するだろう。

 

どうしてこうなったのか、いつ頃から、国語教科書としての最低限の水準、品位すら、保つことができなくなったのか。
これは有意義な研究テーマだと思う。アカポス狙いの人がいるなら、やってみるがいいだろう。

さて、教科書が粗末至極であっても、教員は授業をしなければならない。
教員は、授業のために、ノートを作っておく。簡易なもので構わない。むしろ精緻なノートを作るのは、児童生徒学生の方であるべきで、教員はノート作りに多くの時間をかけるべきではない。

ただし、大学教員は暇がある。ノートをしっかりと作っておくべきである。専門と称して自分の趣味を売り物にしているのだから、思うさま、下準備をし、精緻なノートを作るかと思えば、作らない。
ノートなしの口から出まかせの授業をする。または、十年一日、古い紙切れを、汚れ鞄から取り出して、口述する。こともあろうに、学生に聞き書きさせる。弛みきった遊びである。

では、まとまな「先生」である、小中高の教員のノートはどうか。
ノートに、目的と方法と結果分析とが、簡潔明瞭に記されている。授業の構成図、教科の骨格が明快にメモされている。それで、十分である。

授業で、子供に力をつける教員が、指導力のある、良い教員、「当たり」の教員である。
そういった教員は、どこで見分けがつくかと言えば、教員のノートではなく、学級の子供のノートである。

あなたが親ならば、子供のノートを見るといい。そこに、学級担任の、または教科担任の指導力教授力のすべてが 如実に出ている。
子供のノートの見方については、すでに、『ぱるるの教育批評』のどこかに書いた。興味があれば、探してくれ。