ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

荒れた学級対策と教員の魅力

荒れた学級を解決するには、教員に魅力が必要である。

秩序があり生き生きとした学級に変えていくには、教員が子供を巻き込むことができるかどうかが、鍵である。
しかしながら、子供は簡単には教員に巻き込まれないだろう。結局のところ、子供たちから見て、当該教員に魅力がなければ、そもそも、学級の荒れが収まるわけがない。これは厳しい現実だが、成長途上の未熟な人間相手の仕事である限り、仕方のないことである。

教員に、教養がなく、外見や言動に魅力がなく、精神性も高くない場合、いったいどうやって子供たちは、その教員の言うことや為すことに、信を置けばいのだろうか。それは無理な相談ではなかろうか。

こんな簡単な事実に気づかないことが、教員自身が、すでに遅れているのである。無理なことを、可能と判断してしまうところに、当該教員の想像力の欠如がある。

近年、教員の質が著しく低下しているが、そのことと、教室の荒れとは、無関係ではない。

 

一体全体、世間も、教員たち自身も、教員の立場と力とを、軽く見すぎている。軽く見ていた方が、お互いに楽だろうから、教員も世間も子供らも、グルなのである。

言うまでもなく、学校における、教員の指導方法や言動のすべては、子供へ決定的な影響を与える。現在だけではない、むしろ、子供の将来に向かってはかり知れない影響がある。
だからこそ、当たりの教員のいらっしゃる方向へは足を向けて眠ることなどできないのだ。あなたがこうして、現在の環境、現在の地位収入学識人生観に至るまで、某日某年のあなたの学校生活における某先生の影響の結果なのである。あなたは、それを認めたくないだろう。自分の力だと思いたいのだろう。残念でした。そうではない。

人生は様々の偶然が作用する。それとともに、学校における教員の教科指導を中心とした様々な言動が、個々の子供の人生に、強く大きな影響を与えているのだ。

卑近な例で恐縮だが、皆さん大好きらしい東京大学ですら、受かったのは誰のおかげであろうか。稼業を継ぐために首尾よく国大医学部に入れたのは誰のおかげであろうか。担任教員に決まっている。かつて、某教員に巡り合えていなかったとしたら、現在のあなたは存在しない。他の人生であったろう。それが、今の境遇よりも、高きものか低きものかは、知らない。ともかくも、異なっていた。

 

とはいえ、当たり教員には滅多に当たらないからこそ、人生は凸凹で陥落寸前の場合がほとんどなのである。

では、外れの教員の罪はどのようなものだろう。それは言わない。なぜなら、世間は外れ教員で満ち満ちている。外れ教員が、つまりは教員のことで、外れ教員こそがデフォルトスタンダードなのだ。大学や院の教員に至っては、当たりそのものがそもそも存在しない。

当たりが、ありそうなのは、小中高の教員だが、何度も言うように、盲亀浮木であって、当たりが出たら一生の幸運である。

 

さて、話があちこちしたが、荒れた学級を立て直すためには、教員を取り換えるしかなさそうであるが、それは現実的ではない。スペアがないのである。粗末な部品しかないのである。結局のところ、教員自身が自己変革するしかないのであるが、これもまた、難易度が高い。となると、どうすればいいのだろうか。  
 続く