教員の不勉強について。
教員が、あまりにも無教養だと、子供が迷惑する。
教員の本体である小中高等学校の教員の不勉強ぶりは目に余る。
大学教員はもとより教員ではない、あれは暇つぶしの極つぶしだから、論ずる価値がない。
教員たるもの、基本の教養は絶対に必要である。それは何かと言えば、読書である。
かつて教員なりたての頃、某会合で、学生当時評判だったレスタースミスの『教育入門』を話題にすると、一座の誰一人読んでいなかったことに、驚くというより、むしろ呆れた。
世界教養全集(平凡社)全巻を読破しろとは言わない。たかが岩波新書である。
学生にとっては、岩波新書はチョコレート菓子のようなもので、ほとんどすべて読了することなど、学部の連中の常識だった。それが立派な行為だと勧めはしないが、岩波新書は、数十分あれば読めるような小冊子ばかりだから、教員を仕事にしようとする者ならば、岩波新書のせめて数百冊くらいは、読了しているのが常識だろう。
まあ、あのころから、教員は、不勉強の塊で、しかも、中高校生時代に、学年で1番どころか、学級ですら、トップの成績を取った経験者はほとんどいなかったのだろう。優秀な連中は、医学官界企業に行って、残りかすが教員になったのだろうか。多分そうだろう。
教員の不勉強とその教養のなさは、大いに嘆くべきことだ。
教養といっても、大袈裟なものではない。
第一に、幅広い読書経験で、中でもいくつかの分野には深い造詣が必要だ。
第二に、芸術への理解と興味とを持っていることで、美術と音楽の嗜みが必要だ。両方無理としても、どちらか一つでも、鑑賞者であるとともに作品創造者であってほしい。
ところが、現実は、ご存じの通り。だから、教員は、いないのである。
あなたの子供が「当たりの教員」に当たることは、盲亀浮木であって、不可能であろう。
ともかくも、当たりの教員は、どこかに、いることはいるだろう。しかしそれに当たるのは、万が一の確率である。
ならば、せめて、子供は自学自習せよ。そして、自ら学ぼうとする子供を、教員どもは、そっとしておいてやれ。
不勉強な教員ごときが、いらぬちょっかい出すよりも、優秀な子供は、自分で自分の道を進むだろう。頼むから、邪魔をしないでくれ。
そういえば、受験が近づいた。
さあ、楽しいゲームの始まりである。