At Your Own Risk
自分の責任に置いて、自分の判断で、どうぞご勝手に。
ためになる言葉である。
日本の教育に欠けているのはこの精神なのだ。
「自己責任」という言葉がなんとなく流行ったことがあった。例のごとく、すぐ廃れて、忘れ去られた。
日本以外では、At Your Own Risk は自明の原理である。
日本の教育は、ぞっとするほど、子供を甘やかす。ついでに保護者までも甘やかす。
日本の小学校教員は世界一良質だが、その中身は、「子供の面倒見の良さ」であって、子供の能力を十分に伸ばすことによるのではない。
これは、日本の強さでもあり、弱さでもある。
パリの某学校で、門の外で児童が交通事故にあった。窓から見ていた教員は誰一人席を立たなかったという。
門の中に入るまでは他人である。学校とは無関係である。
その境目は明確である。責任の範囲がはっきりしている。
学校の責任は、校内のみで、始業時から下校時間までである。それ以外は子供自身とその親の責任で生活せよ。
日本もそうなるべきなのか。
その通り。そうなるべきである。そうでなければならないのである。
でなければ、何時までも、余計かつ無駄なことに学校教員が関わり、その揚げ句、肝心の教育活動は今以上に愚かなものになるだろう。
どんなに難しい事態になっても、必ずいくつかの処方箋は見つかる。その処方箋を間違わなければ、乗り切ることができる。
とはいえ、理屈では分かっていても、実際には、なかなか難しい。
子供の学校生活は、保護者の精神の安定によって、左右される。
家庭の問題は、子供を通じて教室に持ち込まれることがある。落ち着かない家庭の子供は、行動に悪い影響が出る。大人も同じである。
学校のことは学校に、家庭でのことは家庭に責任がある。その分別を持っていないと、各々の立場があやふやになる。
子供の家庭の問題に、首を突っ込みたがる教員が増えた時期があった。テレビの通俗番組の影響である。
学校に、婦人会よろしく、出たがる親も増えた。暇な主婦が増えたのである。
これは喜ぶべきか、悲しむべきか。
教員の守備範囲は、学校内に限る。教員が、子供の家庭生活を云々する権利はないし、義務もない。
いわゆる熱血派の教員は、自己陶酔の癖がある。
子供の家庭生活に教員が関わって、涙あり笑いありのドラマを展開するのは、低俗テレビの番組だけでいい。現実には望ましくないことだ。
家庭には、家庭の事情がある。教員が、独りよがりの正義派ぶって、自己満足にひたり、子供の生活に立ち入るのは、失礼でもあり、僭越である。
開かれた学校という一見調子のよい流行語に、危惧を感じる。冷蔵庫のドアであるまいに。
地域の住民が、少年野球やバレーボールの指導をしたり、学校のグランドでソフトボールやサッカーに興じたりすることは、それはそれでよい。しかし、それ以外の何ものでもないことは、知っておいたほうがいいだろう。
学校の門は、子供の下校までは、固く閉じている方がよいのである。
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と、話したのもいつの日だったか。昔話となった。
今でも太平楽だろうか。「安心安全」が合言葉だと聞いた。
一歩家を出れば、大人も子供も、その先は闇である。真っ暗闇なのに、自分だけは安全だ、と決めつけるのは、日本人の我が儘である。
他国では、毎日、事故や犯罪で人がどんどん死んでる。日本でも、たまには死ぬこともあるだろう。
学校は、多くの子供を集めて、教育活動という「危ない仕事」を進める場所である。怪我や病人はつきもので、子供が死ぬこともある。望ましくないことだが、あり得ることである。
そのたびに、感情的になって道徳論を説いてもはじまらない。後は金銭的な解決が残るだけである。
教育は、特に学校は、多くの大人(子供も)にとって、唯一、言いたい放題のできる、身勝手な我が儘をぶつけることができる対象だ。現代の「オアシス」である(だから、ドラマの学園ものは、常に人気がある)。
学校も教員も、通う子供も、様々である。一々問題を詮索すると、きりがない。
今年何月何日が不況だとしても、まだ近所の人々は飢えてない。ダイエットか何かで、肥満を揺すって朝晩歩いている。
都会ではビルが爆破されてない。スカイツリーは陽を浴びて屹立している。皇居周りは朝夕、男女がランニングしている。国会議員がまとめて狙撃されたという話もきかない。
橋の下に死人を見ない。たまに殺人がおこると、すぐに全国ニュースになる。
太平楽と言えなくもないのではないか。
しかし、それでも「登下校が危険だ。どうしてくれる」と言い出す輩がいる。
この程度で、危険だと思うなら、家から出すな。
広い世間だ、色々な人間がいる。悪人も多いと心得よ。
第一、近隣国によって、子供や大人が多く誘拐され、利用されてきたことは無視しておいて、何を今更、危険ぶるのだろう。
我が子が心配なら、登下校に付き添って、学校の門まで送り迎えするがいい。日本以外では、それが常識である。
学校が、親のご機嫌取りのために、安全指導、登下校指導だので、お茶を濁す風景は、見てはいられない。
親は、子供を家から追い出すと、自由時間である。お勤めなり、遊戯仲間とのお茶会おしゃべりなりで、上の空である。
子供は、学習塾の帰りに、深夜のコンビニエンスストアで駄菓子を買い食いして、平気である。
一歩家を出たら、親子ともども、戦場と心得よ。
学校給食、生活指導、地域との連携。どれもこれも、家庭の領分である。学校を託児所に、教員を便利屋にしようとする。
学校の本務は、授業である。それ以外に仕事はない。できない。してはいけない。教科すら満足に教えることができない教員の実態では、なおさらのことである。
教員の仕事範囲の不明瞭は、親や子供の甘えを増長させるだけである。
話があちこちしたが、教員は、ばたばたするな、と言いたいのである。特に公立の小中学校は、もっと落ち着くがいい。
学期はじめに、日本の古典や、日清日露大東亜の戦の話を、ゆっくりと語って聞かせてみたらどうか。
以上の話は、登下校中に遭遇する精神錯乱者や、心神耗弱状態で車を運転する者どもには、当てはまらない。あれは犯罪である。司法の出番である。厳しく処罰するがいいだろう。
ーーーーと、以上を付け加えてからも、またもや日々が過ぎた。
2021年末の今、コロナごっこは、少しは落ち着いただろうか。
コロナ騒動で利を得たのは、マスコミ、製薬会社、医療関係者、公務員の者どもである。彼らが、このまま美味しいご馳走(コロナウイルスとやら)を手放すだろうか。
いやいや、まだまだコロナは続くだろう。意地でも続かせるだろう。ワクチンの次は、どんなキャンぺーンで、どのくらい儲けようか、頭を突き合わせて相談中である。
コロナ万歳。