
国語教員にとって、もっとも重要な仕事は、児童生徒(場合によっては学生)に、日本語読解の基礎を教えることに尽きる。
学者は文章だと、誰かが言った。政治家は言葉、とも言う。
すべての学業優秀な子供は、読解に優れている。例外は知らない。
以上のような常識を話したところで、益はないだろうが、読書の減少傾向を見るにつれて、危惧するのである。
ただでさえ、古典良書を読まなくなってきている。
この十年、老若男女ともにスマホ漬けの毎日である。
子供も大人も、うつむいて小さな液晶画面に釘付けである。デジタル中毒が、頭脳や身体に悪い影響を与えないわけがない。
スマホの害悪を喧伝する人もいなくなった。もはやスマホは、生活の一部というより、身体の一部なのである。
文章の危機は、まずワープロが出た時に起こった。次は、ワードや一太郎に代表されるパソコン用の文章作成ソフトが出た時である。第3の危機は、スマホを誰もが持つようになった時である。
文章は終わった。故に詩歌小説も終わった。当然ながら思想哲学も終わったのである。
YouTubeに代表される、短絡刹那言いたい放題いい加減、クリック優先、サムネイル、キャッチコピーの時代である。論証抜きのいきなり結論(らしいモノ)を叫ぶ。どう見ても、YouTube動画は卑しいテレビ未満の洗脳装置である。再生回数と再生時間が望みである。イイね、チャンネル登録だそうである。乞食である。物乞いである。
本来の動画投稿は個人の楽しみである。勝手にネットに出して、ディスプレイで見て、家族で喜んでいればいいのである。たわいのない遊びである。
それが、こともあろうに、他人に対して生意気を言う。のみならず、金銭欲の塊で、オネダリ商売人剝き出しである。
テレビはとっくに潰れていいのに、まだある。新聞もある。雑誌も今だにテキトーに売れている。
新刊書はデジタルのおかげで、安価に作れるようになった。よって、ゴミがますますが増えた。
そこで、国語教員である。別に国語専任でなくてもいい。多くの教科は、日本語で書かれた教科書を使っている。
教員が日本語文章の(批判・批評・分析的な)読み方を教えるのである。
子供も大人も、スマホによって「痴ほう」と化している。それを防ぐ方策の一つはは、教員の学科指導である、とか云々。
と、以上を先日、某所で聞いた。
ところで、自宅倉庫を整理して、大量の本を捨てた。
なぜ本が倉庫にあるかというと、久しい以前から、母屋から書籍を移動しているのである。居室に本が多いと、衛生に悪い。どうせ読みもしない駄本の山である。捨てるに惜しいものだけが手元にあるが、それでも、もう二度と読まないだろう。そう考えて、倉庫に移動したのである。
ところが、その倉庫ですら、本臭い紙臭い、虫が出る。ついには蛇まで発見する始末である。
そこで、三たび四たび、書籍を捨てたのである。
今回は沢瀉久孝の萬葉集注釋全巻、小林秀雄の全著作、日本古典文学大系の残り、岩波の清々した。
これで残りは、別室に鎮座させている鴎外荷風の全集とフロイト著作集のみである。
自宅に多量の書物があるのは、恥ずかしいことである。本は、然るべき図書室で読め。自宅で読みたければ借り出して読めばよい。私たちは、城を持っていたモンテーニュではない。書物を自宅に保管できるはずがないではないか。