ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員になりたい子供へ。小中学校教員は地獄。高校教員は凡人。大学教員は極楽。 グループ療法に集まる先生たち。

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教員になりたいという子供が多い。
小学生ぐらいが可愛いからと、安直に小学校教員を志望する子供がいる。
中学生は話が分かる年頃だからと、中学教員がいい、と言う子供もいる。
危険な選択である。

小中学校は義務教育で、学校が多い。教員の採用数も多いだろう、なんて料簡では、到底続かない。万一、採用されても、相手が相手である。死ぬほど苦しむことになる。

教員で、安泰なのは大学教員、私立大も楽勝だが、国立大学の教員はほとんど天国、できれば、大学院、中でも、政策大学院などは極楽である。
関係者なら、先刻承知のはずだろう。

しかし、教員志望の子供の多くは、楽をするためではない、子供とともに苦労したい、子供の未来にかけたい、などと、企業面接の真似事みたいに、綺麗ごとを仰る。
生意気は言わぬがいい。
人は他人のために、自分を苦しめようとする存在ではない。
ナイーブな精神は、すぐに発狂することになるだろう。

高校教員は大学教員の次に、お気楽商売だが、どの学校に勤めるかにもよる。
三流以下の私立高校の未来はない。私立高でも、指導困難、不登校気味、精神療法が必要な生徒等々、専門化した特色を売りものにして、わずかに残る学校もあるだろう。しかし、いずれ公立高校が多方面の生徒を取り込もうと枠を広げてくる。
公立は、学校が余っている。教員も余剰が出る。私立が、隙間に顔を突っ込んだところで、親方日の丸のパワーにはかなわない。やがて潰される。

灘開成麻布桜蔭女子学院その他諸々の「有名」私立校は別建てである。ただし、教員採用は一般的ではない。卒業生または縁故で採用される(らしい、と書いておく)。
そこで、結局のところ、おススメは、大学教員となる。
倦まずまずたゆまず励み努るぞ肝要、とか宣長先生も仰ったはずである。


もう少し言う。
景気が安定して、とりあえず生活に大きな心配がなくなると、どういうわけか世間は教育に目が向く。そして、どんどん迷うものである。

今は流行らないが、二物衝突というか、子供の判断を試すような授業が盛んだった時期がある。道徳でもなければ、国語でもない。社会でもないし、倫理か何かのつもりだったのだろうか。
授業後の検討会は、少年がロープをもって海に飛びこんだのは、是か非かなんて、小中高大学の教員らが、激論の風体である。
しかし、これは小学6年生の国語の研究授業であったはずだ。

原文がまずいとはいえ、仮にも教科書掲載の文章である。駄文は駄文なりに、逃げも隠れもできはしない。だったら、もう少しまともに読ませることに専念して、音読の訓練だけでも、したらどうだろう。
子供はつっかえつっかえ読む。間違って読んでも、指導者は上の空である。難しい顔をして、意味不明の発問をする。

次には、定番の、子供の発言、発表の時間である。
僕は○○さんの意見に賛成です、違う意見がありまーす、なんて型通りの話し合いごっこに終始する。

うんざりである。これは国語科の授業ではない。大人の口真似をして、悪文から、意見らしきものをひねり出そうとする芝居小屋である。
その意見というのがまたひどい。ステレオタイプで、○か×かである。

国語は国語らしく、子供は、日本語の名文を音読し、要約し、解釈し、書き写し、暗唱するがいい。そう指導するのが教員の仕事である。

子供を泥沼に引き回すのは、大人たちに教養がないからである。教養は、大げさなものではない。ごく当たり前の常識のことである。
学校教育は、日本の文化伝統の継続と、次代の社会人としての基礎教養を培うことが、本務である。
迷える教員たちの、グループ療法の場ではない。