ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員の実力と中学生の学力低下。某中学校の授業参観。

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この中学校は、どこでもいい。たとえば、あなたの住んでいる近くの中学校を想像してみればいい。

中学生(男子)と高校生(女子)の子を持つ親から聞いた話である。


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どの中学校も、中学生という難しい時期の子供を扱うわけですから、学年団もそれなりに問題を抱えています。特に今年の中学2年生は学校での生活、学習ともに非常に乱れている状態だと聞きました。

この中学校では、生徒が教員に暴言を吐いたり、休憩時間中、更衣室で菓子を食べたり 、チャイムの無視や暴言奇声はもちろんこと、授業に全然集中できない状態であると聞きます。生徒間のいじめや暴力行為も頻繁にあるということでした。授業が、生徒の学力保証になるどころか、単なる遊び時間の延長のまたは、もっとひどい暴力の場になっているようです。

先生方も苦労なさっているようですが、一部の生徒に過度に遠慮されているのか、強い指導が為されていないように思います。もちろん、授業が不成立なような状況に至るまでには、一部の問題的行動をとる生徒を放置したり、あるいはその指導が足りなかったということがあったかもしれません。

また、中学入学までの 前段階として、同じ校区内の小学校高学年での学習指導や学校規律が、きちんとなされていたのかどうかにも、関係があると思われます。

勉強をしたいと考えている生徒にとって、普通に勉強できるような場所にするために、教員も行政も保護者も、何らかの行動をしなければならないと思います。

近年の中学校における学力の低下は目を覆うばかりのものがあります。
学校側でも生徒の荒れに対処するに精一杯で、学力の向上に手が回らない状態のようです。これでは、今後の社会状況の変化に対応する知性的で創造力あふれる人間を育てることは、とうてい無理な状況のように思われます。従って多くの親は、苦しい経済状況の中でも、なんとか学習塾に通わせて、最低限の学力をつけさせようと必死でございます。

多くの親は、この状態を見越して、小学校段階から、公立中学校への進学を放棄し、なんとか私立の中学へ入れたいと希望する親が多くなってきました。家庭の経済的及び子供の学力という条件をクリアできるならば、私立中学に行かせたいという考えを持つ人が多いのが現状です。

しかしながら、現実には、受け入れの生徒数の問題があり、小学校卒業生の7割程度は公立中学校に通うこととなります。私立中学は不況にもかかわらず、公立中学に比べて、高い学費が必要ですので、誰にでも門戸が開いているわけではありません。

ですから、公立中学校では今一度、学習指導要領の原則に立ち返って、学力の向上の見える授業を行っていただきたく、授業妨害を行う一部生徒に対しては厳しい対応を願わざるを得ません。実りある毎日の教育活動を進めていただきたいと思います。

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以上の意見はともかくとして。

過日、公立中学校の授業を見る機会があった。中学3年生である。英語、数学、国語の授業を何クラスか参観した。

あいかわらず、中学教員の多くは授業が下手である。
授業の技術は、小学校の教員が一番優れていて、高校教員は素人である。

大学は論外で、大学教員のそれは、授業というよりは、独りよがりのつぶやきにすぎないことが大半である。まことに、おめでたい「職業のようなもの」である。

さて、某中学の授業では、教員は黒板に教科書と同様の図を書きなぐり、ときどき、生徒の方に振り返っては、教科書のページを棒読みする。
生徒を前に出させて、黒板に書かせたり生徒自身が考えた解法を説明させたりすることをしない。どういうわけだろうか。
うまく指導すれば、生徒の発表も可能であるはずなのに。

女性教員によくあるタイプだが、大声を張り上げる。何とか生徒達を授業に入り込ませたい気持ちはわかるが、声を大きくすればするほど、知性はどこかに飛んでいく。むしろ、声は小さいほうがいいのである。

授業構成は、教員が一方的に話しているだけのものがほとんどであった。それも「簡潔にして要領がよく、興味をひいておもしろい」のならば、まだ救いようがあるのだが、だらだらと冗漫で、暗く自信のない様子である。

お決まりのプリントを配り、生徒達は、漫然と書き込んだりして、手持ちぶたさである。しかも、例によって自己評価(よくできた・できた・もう少し。自分のことを自分で○をする)とかの欄がある。こんな偽善があるだろうか。

自己評価をする行為そのものが、授業の目的になってしまっている。

何より問題なのは、この「授業のようなもの」が授業であると、教員も子どもも信じ込んでいることだ。

中学生は、小学生の次の段階で、年齢的にも近いのだから、小学校教員の授業レベルの、せめて半分程度くらいは、中学校教員も効果のある授業をするべきである。

とはいえ、私は、一部(あるいはほとんど)の小学校教員が、授業に凝りすぎてしまうことを、苦々しく感じている。
何でも屋であることを要求されている小学校教員は、ただでさえ、殺人的に忙しい。

毎時間の授業を、繊細に精緻に、「完成度」を求める準備作業ばかりに、日々のエネルギーのほとんどを使っては、なんのことやら、である。

準備に費やした時間の割には、授業の効果少なく、自己満足に過ぎない。あれでは、毎日へとへとになってしまうだろう。

小学校教員は、授業方法にいたずらに凝ることなく、淡々と授業を進めるようにすればいいのではないか。知的迫力のある授業は、授業の明確な目的と、知識と自信とを教員が持ってさえいれば、できるはずである。

それはともかく、中学校に話を戻そう。
中学の授業レベルは年々落ちてきている。もちろん、学習の基準となる「学習指導要領」が、ご存じのように、あきれかえるほど、レベルダウンしているので、一方的に中学教員のせいばかりとはいえない。
だからといって、授業の工夫もしない、教員が知的レベルを高める努力もしないようでは、ますます泥沼にはまって行く。
今、全国の多くの公立中学校で行われている授業では、並の中学生なら、その単調さと、知的な格闘のない平板な時間つぶしに、きっと嫌になることだろう。

教材も教える方法も、数年前と比較しても、程度が下がっている。だから、子供がついてこない。知的興奮がないからである。

子供の授業態度が年々悪くなり、指導そのものが難しくなってきていることは認めよう。しかしそれは、授業がお粗末であってよいことにはならない。授業を、教員の意識で変えていけば、倦怠の塊のような中学生でも、いくらかは蘇生するはずだ。