ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

現代文授業の要は問いの発見 読解指導の方法論 圧倒的な国語力

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国語教科書を、古文や漢文のそれと区別するために、現代文と呼ぶことがある。
現代日本語の文章だから、現代文なのであろうか。そのまんまで芸がない。

 

文章は、読み手が一読してたちまち理解させるように書くのが、書き手の義務である。
ああでもない、こうでもないと、文章をひねくり回さなければ、何が書いてあるかが、さっぱり不明な文章は、そもそも、読む価値がない。
とはいえ、試験がある。

難解とされている「文章」を、読み解くには、ある種の能力が必要であるから、その能力の有無、大小を測って、より潜在力の高い人材を求める、というのが建前である。これを、俗に、頭がよいと言う。ならば、現代文読解の試験は、頭の良し悪しを測る絶好の方法となる。

大学の数学科は、頭の良い子供が集まるというが、本当か? 勤勉で小才が効く連中が多いのではないか。数学は才能だ、などというが、それはトップ中のトップに該当する言葉で、大方は暗記でつなげてきた連中だ。数学は暗記である。最優秀の子供にとっては、数学は詩である。

 

本当の意味での頭の良さは、言葉に関係する。読解能力を試すのが、手っ取り早い。疑問の向きもいるだろうが、次の事実がある。フロイトは優れた実践的学問の巨人であるが、彼の本領は文章にある。読書の基礎に立った文筆力である。

唐突だが、シェイクスピアがそうだろう。プラトンがゲーテが、デカルトモンテーニュパスカルカントヘーゲルが、ええい面倒だ、結局、言語がすべての思想の源流である。

となれば、日本語国語科が、もっとも基本かつ重要であって、教えるにも学ぶにも、全力を傾注すべきことに、疑う余地はないだろう。


私たちはだれでも、母国語でまず考える。日本人は、日本語で考える。その日本語国語を扱う教科は、これはもう唯一無二にして崇高偉大である。

とまあ、興奮しても仕方がないが、現代文の授業は、かくも大切な時間である。

 

さあ、どうやって授業をすればいいだろうか。
私は現代文の授業の担当教員が、その子供時代を通じて、国語科の成績が、トップだったと信じたい。私は、教員が児童生徒学生時代に、一度も首席を取ったことのないような輩は、教員ではないと信じるものである。

国語の極めて優秀な子供が長じて教員となり、国語科を教えることが望ましい。
他教科ならば、その教科が得意でなくても、当該科目の免許さえあれば、どうにかこうにか、教えることができる。
しかし、国語は、現代文は、ちと違うのではあるまいか。

 

では読解授業のやり方である。とはいえ、これも、簡単に説明できるような代物ではない。スマホブーム、ネットブームは、簡単直截な回答を求める傾向にある。しかしながら、授業方法は個々の教員の能力に依存するから、一律の答えはないのである。

 

学問は、自問自答に極まる。
古人曰く。如何如何と問わざる者我これをいかんともしがたきのみ。
問いを自ら発することが、学ぶことである。問いは、すでに答えを予想している。

とはいえ、これを学習者にいきなり求めるのではない。こうなるように、仕向けてやるのが授業である。

読解授業とは何か。つまりは、教員が問いを発し、子供が答える、これに尽きる。

次には、子供に問いを発明発見させ、その子供が他の子供に、問うのである。そうなれば、教員は傍らで座って見ていればよろしい。
こういう授業こそが、そしてこれのみが、子供の学力を上げる。
この方式は、小学生から大学院生に至るまで、およそ国語科授業の鉄則で、難しいことではない。
しかし、教員自らが問いを発明できないようでは、国語科教員として論外である。

 

そういえば、各教科には指導書という、不気味なものがある。教科書会社が作成した分厚い冊子で、教員たちの、神聖にして不可欠な常備品である。これはおかしい。
授業は、個々の教員が教科書を利用して進める。教科書以外に軽率な手引きなど不要である。教員自らの頭で、指導すればよろしい。教科書が気に入らなければ、自分で副読本を作成すればよろしい。
いったい何が指導書だろう。教科書会社は、以前から現場の教員を馬鹿にしきっているが、現実として、指導書に頼る教員ばかりだから、仕方のないことかもしれない。

 

話を戻して、授業での、問いの一端を示そうか。
問いは、教材によって、教員によって、子供によって、時代時期によっても変化する。どころか、授業当日の子供や教員の体力知力の状態によっても違う。

授業中、その場で、問いを、一瞬のうちに発見し発明し、発することが、望ましい。一晩かけて準備するのは、子供の方であって、教員ではない。
ここまで言っても、分からない人もあるだろうから、例を示す。字義通り一例である。某教材某日某時間某学級の、常に変化する問いにすぎない。

鴎外『寒山拾得』 なぜ「真っ青な顔」で立ち尽くしていたか
漱石『こころ』  なぜ私は先生に近づいたか
秀雄『人形』    車窓に何人の顔が写っていたか

以上は、知人の記憶による。

問いの数は不定である。しかし、短い教材文でも百を超えることはなく、数十を下ることはない。

問いは単純だが、簡単ではない。裏の裏がある。答える子供の状況で、刻刻変化する。各ページ各行で、いくらでも生まれる。子供に教材を読ませている時、問いの答えを検討している時、問いが問いを呼ぶのである。
これはと思う問いを、教科書に書き込んでおいてもよい。
瞬間の流れを大切にするために、あえて白紙で臨むのもよい。
クラスによって差が出ることを気にするのなら、同一の問いでもよいが、それには及ばないだろう。担当の全クラスを、そのクラスなりに向上させればいいだけである。教員も教材も同じなら、自然とそうなる。期末試験のクラスごとの平均点を気にするようでは、素人である。どうせ学年トップは、あなたの担当するクラスである。

問いは、既定せず、その場での発案であることが要である。知的にわくわくする授業は、意外性にある。
教員自身に、圧倒的な国語力が必要とされるのは、以上の理由による。

恐々謹言。