東海林太郎の歌を、時々カラオケで披露する。むろん下手である。
麦と兵隊、隅田川の類である。
この歌は、小学校唱歌だったとしても可なり。
歌詞が、やれ帝国主義だの、軍国主義思想だの言う輩は、もとより覚悟のない連中で、論ずるに足らない。
かつて田中美智太郎先生は、ある学生の「僕は、このままでは、社会の流れに取り込まれそうです、どうしたらいいのでしょうか」との問いに、「社会に取り込まれそうだと思うような弱い精神なら、かえって、君は率先して取り込まれたほうが、君の幸せだ」と、おっしゃった。まことに至言である。
愛国行進曲を歌うくらいで、どうして、過去の軍国主義に戻るだろうか。そのレベルなら、むしろ諸君は自ら戻った方が、自分探しに適している。
現代人は、今に生きている。素直に言って、東海林太郎の歌は、健全にすぎる。
時代は常に動く。マスコミ宣伝のわかりやすい「刺激」に動揺することを止めて、裏を見抜くとまでは無理にしても、せめて、自分の頭で考えて(または考えようとして)、生活することが善きである。もとより、そうでなければ、世界中の抜け目のない奴らの中で(これを、ボーダレスな競争社会、または国際資本主義と言うんだそうな)、日本が安全と繁栄を保って、無事にやっていけるわけがない。
過去は消えない。先人は、その時代を精一杯生きて、甲斐ある人生を終えたのである。今、生きている人がどうして過去を否定したり、評価できようか。ただ、そのまま受け止めて、そこから学ぶことを、学べばいいのである。
話が変わるが、永井荷風の文章は、日本文の一流である。それに関連して、
こういう情緒も、日本独特のものとして、中学音楽教科書に載せたいものである。
また、ところで。
小津安二郎は最後の作品、「秋刀魚の味」の中で、笠智衆をして、「あの戦争は負けてよかったのじゃないかな」と言わせている。奇異な感じだが、ある種の味はあった。
先の大戦の日本の敗北は、当然である。それでよかった、というより、それしかなかった。
あり得ないことだが、もしも、万が一にでも勝っていたらどうだろう。世界はもっと窮屈で暗いものになっていたのではないだろうか。そう思うのは、私だけではないだろう。
それはそれとして、東海林太郎の歌や小津安二郎の映画は、昭和の華として、現今の小中学生、高校生に、親しませたい。伝承してほしい日本の芸術文化だと思うが、如何。