ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

国語ができる子は、才能で解く。答えが透けて見える。高校国語科教員の悩み。

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何度でも言うが、高校教員は、おおむね今の立場に満足して、それなりに楽しんで仕事をしている人が、小中学校の教員に比べて多い。
したがって、教員職をエンジョイしようとするのなら、高校教員が最善の選択である。
大学教員は、教員というより趣味人だから、それはそれで圧倒的な極楽だが、就職口が高校教員に比べると狭い。
そこで、教員になりたいなどと口走る教え子には、高校教員をすすめる事が多いが、中学や小学校の教員になってしまって、苦労する子がいる。それもまた、遣り甲斐があるだろう。

さて、高校教員が楽勝だといったが、例外がある。それは国語科の教員で、仕事量が半端ではない。給与を教科によって差をつけろという私の持論は、音楽体育美術家庭科の如き「遊び教科」と、できない子は無視されることが多い英語数学などの「放任教科」とも違って、国語教員は、準備も授業も事後の評価も、あまりに煩雑で時間をとる。同一賃金ではあまりに不公平、という理由による。

しかも、国語力は、学習の結果が、もっとも効果の見えにくく、また実際になかなか学力の向上しない科目である。
国語がもともと得意な子供は、難問を、才能で解くことができる。そんな子供が、往々にして、東大等の総合力を必要とする国立大難関校に合格することが少ないのは、十分に学習時間をかけなくとも、その場の才能と瞬発力で問題が解けると思い込んでしまっているからだ。地道な暗記が嫌なのである。才能型、またの名を怠け派である。
英語数学が得意な子供は、努力型が多く、反復と記憶とに時間を費やすことを苦にしないから、結局は受験に勝つのである。

話を戻すと、国語は、高校教科では、もっとも教えることが難しい。
少しばかり教えたからといって、簡単に伸びるわけがないのに、生徒の国語力を短期に上げようとして、無駄あがきをする。子供が焦るのならまだしも、教員が焦るのだから話が逆である。
どうも困ったものである。

漢文古文は問題集を解いたうえで丸ごと暗記する手もあるが、現代文となるとそうはいかない。稀代の悪文を使用した最悪問題を解かなければならない。
しかしながら、国語が得意な子供にとっては、何が出ても、怖くはない。はっきり言えば、授業に一時間も出ていなくても、問題文を見たとたんに、解答が紙面の裏に透けて見える。これは当然で、問題文はどうせ母国語で書いてある。設題も日本語なら、回答も日本語でいいわけである。こんな簡単なことがあるだろうか。
漢字文法語彙等々は、国語の得意な高校生にとって、今までの読書の膨大な蓄積がある。遊び半分で楽勝である。

国語科こそは、子供の資質才能によって学力が決定されることが最も大きい科目であって、国語力を授業で簡単に上げることは、できないのである。

あの先生の授業を受けて、自分の国語力が上がった、というのは、それはそれ、君自身がすでに国語力があったからなのである。
ここまで書くと、身も蓋もないが、考えても見るがいい。
例えば某公立高校が全校生徒数1200人としようか。国語が異常に得意な子は多くて各学年2名である。となると、合計6人。ずば抜けて国語の才がある子はそのうちの一人くらいである。
毎年、国語力が秀でた子が二人卒業することになるが、その子が高校の国語教員を目指すだろうか。
昨年度、公立高等学校に国語科教員として採用された数が、全国で200人と仮定する。その200人は、国語が嫌いではないだろうが、上記の意味での才能型国語人間は皆無であろう。
判で押したような努力型人間がほとんどであろう。

努力型の国語科教員は、どうしても、国語科を、数学や英語などと同等に見てしまう。やらせれば、頑張らせれば、そして教員自身がひたすらサービスに努めれば、生徒の国語力が上がると、勘違いしてしまうのである。
どうも気の毒で見てはいられない。
もっと、気楽に大ように構えて、駄文ではなく歴史的な名文を教材に、悠々と授業を進めてほしいものだと、心底から願うのである。