ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

荒れた学級の解決策 病める教員 憎しみの子供 教員同士の反目

荒れた学級を立て直すには、どうしたらいいだろうか。

児童生徒学生を以下、子供と記す。

子供は、教員と仲良くやりたいと、本音では思っている。自分を認めてもらいたい、自分の苦しみを分かってもらいたい。自分を救ってもらいたいと、思っている。

教員が、子供の気持ちに気づかなかったり、気づいても、応えることができない場合、子供は教員を憎む。

勝手と言えば、勝手だが、子供はだから子供であって、その意味では、私たちは誰でも、永遠の子供なのである。

 

子供は教員を愛する。直截に言えば、子供は教員が好きなのである。それはそうだろう、親以外の、一番近い大人である。自分に近しい大人とうまく付き合いたいと願うのは、当然である。ところが、その教員が、自分に無関心で、のみならず、自分を疎ましく、嫌っていると、子供が感じたとしよう。子供はどうするだろうか。激しく、教員に反抗し、憎むようになるだろう。

もっとも、教員も、当該子供に、すでに、いくばくかの憎悪の感情を持っていることだろう。いわゆる反抗的態度を見せる子供であるから、好きになれようはずがない。あんな子供、学級からいなければいいのにと、思っているだろう。

 

結局は、人間性と言うか、教員の度量の問題となる。子供の本心が読めるか、それにどう対処するか、対処できるか、である。ケースによって個々別々だから、一様の解決策はないのである。ではあるが、教員が子供を憎んでしまうことは最悪であって、そういう人は教員をしてはいけない。

教員は、善人で幼稚な人が多い傾向にあるが、それにしても、どんなことがあろうとも、子供を憎んではいけない。逆に、教員同士で憎しみ合うことは、他の業種より多いようである。

子供を憎み、子供から憎まれ、他教員からも針の筵では、当該教員は、病めるか、辞めるか、自殺するか、である。

 

教員の自殺者や途中退職者を見てきたが、人は些細な出来事で、陥落する。

ということは、その些細なきっかけがなかったとしたら、違う方向に向かっていたことになる。

ところで、先のことは誰にも分らない。運転中、わずかに右に視線を向けた途端に、左から来た歩行者をはねる。床に落ちた口紅を拾おうとして、対向車に突っ込む車もあるのである。

偶然である。あるいは必然である。

学年を構成するとき、どういうわけか、ある学級に、問題行動をとる子供が多く集まってしまうことがある。

他の学級は楽ちんである。「よい子」ばかりで構成された学級は、授業もしやすく、毎日が楽しい。その逆は想像してくれ。

 

授業でへとへとに摩耗し、他教員からも様々な嫌がらせを受ける環境の中で、それを乗り越えなくては、教員は続かないのだろうか。

これもケースによる。

 

多くの後押しがあって、教員は崖から転がり落ちるのである。その寸前で、立ち止まる人がほとんどなのは、後押しのどれかが、途中で抜けるからで、それは運である、としか言いようがない。

 

かつて、「世間に流されるようで不安だ」とある人が問うた時、碩学は、そんな弱い気持ちを持っているようなら、君は、世間に流された方が、その方が幸せだろう、と答えた。

このエピソードは、ちょっと聞けば、痛快なようだが、大学教員の傲慢さと未熟さとが露骨に出ている。

人はそれほど強くない。ある程度は強いが、マイナス要因が、限度を溢れて増大すると、ダムが崩壊するのである。

 

どうやら、結論があやふやだが、そんなものである。続きはまた。