ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

相手を見て、指導する。荒れた学級は、子供の知的興味に訴える。

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子供は、誰もが背伸びをする。子供は挑戦したがっている。現在の自分より少し上を常に望んでいる。なかなかの自信家であり自尊感情が強い。

子供に、知的な興味関心を育てることは簡単で、対象を子供に提示するだけでいい。
もっとも、こんな簡単なことでも、「魅力」ある教員でなければ、難しい。知的な向上心を活発化させるような教員が、子供に好まれるのは、子供自身が、本心では、学びたがっているからだ。

教員のすることは、子供の自然な感情を刺激しながら、授業を進めるだけである。小難しい理屈はいらない。
不必要にややこしく勝手に悩むから、困るのである。

その昔、ソ連の心理学者で、最近接領域とか言った者がいた。
言い得て妙で、もう少しで手に届くぎりぎりのところを与えて、教え伸ばすのが、万事上達の秘訣である。

簡単すぎても、難し過ぎてもいけない。少し悩ませて苦労させて、自力で解かせる。少なくとも子供自身がそのように感じるように指導しなければならない。
これを間違うから、子供に勉強嫌いが出てくるのである。


話は変わる。
小中学校、特に小学校の高学年では、担任教員によって、ずいぶんと学級の雰囲気が違う。
荒れた学級、荒れつつある学級、まあまあ落ち着いている学級、その他。

混乱の原因は色々で、簡単ではない。子供と教員との人間関係に帰着する。
教員と子供とが、敵対関係に近いものになっていると、すべてが悲惨となる。もっとも、子供は可塑性があり、マイナス面から目をそらし、自然と得になるように行動するから、学級の現状に馴染もうとする。現に、すぐに馴染む。
馴染まないのは、むしろ担任教員であって、うじうじと拘泥するから、ますます泥沼に嵌る。

例えば、言葉の遣い方である。
教員は、授業中、言い間違えをしたとき、大げさに謝る人が多い。
これを何回もやると、教員の言葉に、子供は都合よく敏感になり、教員の言葉尻を捕まえて、攻撃の機会を待つようになる。
一方、教員は、防御のために、言い間違えたら、子供の指摘の前に、先手を打って謝るようになる。これがかえって、子供の教員攻撃の端緒となる。
悪循環である。

また、一部の子供が他の子供へ、あえていたずらして、それを教員に注意させることによって、教室の喧噪を増やそうとする。学級の多くの子供が、内心期待するところでもあり、いたずらをする子供へ同感しているから、教員個人と学級全体の対決となる。
こんな学級は、午後は、決まって喧噪が拡大する。午前はあれでも一応の規律の中にあったモノが、我慢できなくなって噴出するのである。喧噪を抑えようとしてきた教員の体力も、午後には弱まってもいる。

その他、事例は山ほど提示できるが、荒れた学級の特徴を指摘しても仕方がないだろう。
担任教員次第で、何とでもなる。しかし、実際の場面で、教員の指導ができる人が少ない。または、いない。
このあたりのことは、微妙な問題である。いずれ話す。