ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

道徳授業 日本国史 世界資源競争 強靭な人材

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過日、某小学校の道徳の授業を参観した。ジョバンニだかトルネードだかしらないが、外国の低劣な短編を読ませて、粗筋を互いに言い合う。狙いの定まらない、嫌な授業だった。
道徳なら、道徳らしい「教材」を使うがいいだろう。

道徳の教材は、日本の歴史である。定評ある古典作品である。
国史には、人の道の教訓が満ち満ちている。
これこそが、道徳という名の「授業」で使用する教材である。
道徳は、常識というより、教養である。読書で培われるべき教養である。

実際の道徳教科書は、切れ切れの駄文集であり、悪書である。
小学校や中学校のそれに目を通せば、教科書作成者たちに、道徳の「教養」の、一片だにないことが、わかるだろう。
あれは、道徳では、断じてない。
自信のない大人たちの、雑文の寄せ集めである。または、「近隣諸国」に、「過剰な配慮」をした「ごますり文の集積」である。

(「教科道徳」の「廃棄」についてはいずれ述べる)


ついでに言えば、大人は、子供が毎日せっせと勉強して当然だ、と考えるが、子供の方は、遊んで当たり前だと思っている。
子供の分際で生意気だ、身の程知らずだと、子供に向かって注意する大人が、いなくなったためである。
せいぜいそれに近いことを子供に向かって言えるのは、学習塾の有名講師くらいのものである。

公立学校の教員は、ずいぶん変わった。児童生徒に対して、その背後の親に対して、ついには校内の教職員に対しても、びくびく、おどおどするようになった。
それもそのはずで、子供や親や地域の住人から、四六時中「評価」される。その結果によっては、減給や配置換え、馘首もあり得ると、脅された。
校内でも油断できない。自己評価、他者評価、第一次評定、第二次評定と、評価されっぱなしである。
教員の仕事は、綱渡りである。授業で何が起こるか、子供たちが何をしでかすか、見通しのつかない日々を送っている。その動作言動に、いちいち評価・難癖をつけられては、のびのびとした演技ができない。

左様さな、授業とは、一種の演技である、世阿弥の「離見の見」を意識しなければ、効果的な授業ができない。自分で自分に酔ってしまっては、落語家が自分で笑ってしまっては商売にならないことと同様である。


教員は、もっと大切に扱うべき代物である。表向きだけでも良い、それなりの対応をしないと、ろくなことにならない。
教員への、商業的管理は、結局、子供のためにならず、日本のためにならない。諸外国が、にんまりするだけである。

日本の人材の衰退は、外国の利益になる。

地球上の限りある資源の取り合いは不可避である。国家間の平等は、永遠にありえないし、あってはならない。すべてを平等にしてしまうと、人間の人性に反する。完全な共産化は空想であるし、恐怖である。

競争は、人類の発展繁栄の原則で、フィールドで走るには、強靭な体力知性教養識見ことごとく秀でた日本人が必要である。

人材は、育てて作らなければならないのである。学校教育だけが、その場ではないが、重要な土壌ではある。

 

学校には優れた教員が必要なのだ。日本が、安全で豊かな国であり続けるためには、教員をうまく使役して、のびのびと十分に働かせてやろうではないか。

 

初出 20170802

改訂 20230903