ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

中高一貫教育の主役は、私立から公立学校へ。大学施設は介護施設になる。

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長い間、私立の中学校や高校は、中高一貫教育が売りで、中学校に入りさえすれば、高校まで保証した。経営グループが大学を持っていれば、大学卒業まで面倒を見た。
良い悪いではない。つまるところ、金である。商売である。

そこに公立学校が乱入した。都道府県は、最初は恐る恐る、やがて競って中高一貫学校を作って、優秀な小学6年生を青田刈りした。
小学校の教室にまで訪ねてきて、学級担任と面談して、該当児童を物色した。

 

開学当初は失敗だったこと、以前述べたとおりである。しかしながら、親方日の丸である。設備と教員の補充は、私学の比ではない。ようやく効果のほどが見えてきた。
12歳の学業成績優秀な子供を、選りすぐって、選別して、6年間、勉強に次ぐ勉強で鍛え上げた。
全寮制だから、朝から晩まで勉強できる。学習塾なんか行く暇がない。行く必要もない。寮の自室で勉強すれば十分である。先生も舎監でちゃんと目を見張っている。申し分ない。
公立の中高一貫校は、もはや強力な大学入試マシンと化したのである。

 

古い私立の中高一貫校の自慢は、卒業生の厚みである。ほとんど、それのみである。

大学進学率は高いものの、学校の努力ではない。生徒自身のポテンシャルと自習との結果である。または予備校のおかげである。
そんな私立校を、世間はいつまでも甘やかしはしない。人が他人を甘やかすのは、みんなが楽勝で、互いにうまい汁を吸うことのできた時だけである。
格差が進み、生活や商売が厳しくなれば、コストの削減と効率と、ついでに公平とを目指すようになる。

公立学校は、なるほど、国民の税金が母体である。
ならば、もっとちゃんとしろ、私立学校の数少ない利点を吸収して、公立校もそれなりにやるべきだ。いや、税金主体だからこそ、その義務がある。中高一貫で面倒を見ろ。経営優先の私立学校なんかに、優秀児の指導を任せ続けていいのか云々。
多くの納税者の意見に、行政は動かざるを得ない。
役所人間連中も、各々の担当分野や業種で、見て見ぬふりして、のんびりと良い思いをすることができなくなったのである。それなりの工夫と努力とが、ことさらに必要になって来たのである。多少は働かざるを得ない。何かの手を打たざるを得ない。

 

さあ、私立学校は、危機である。経営のやりくりに頭を悩ますどころではない、存続そのものが危うくなってきた。
いい気味である。少しは悩むがいい。
私学の教員は、昔から、自己流でお気楽に漫然と授業をする教員が多かった。自分は違うぞ、と思うのなら、それでいい。おめでとう。
だが、公立学校の教員は自殺したり、耐え切れず転職したりする人が多いが、私学の教員は少ない、というより、聞いたことがない。
私立学校の教員は、お仲間である。家族である。互いに甘い。マンネリである。

子細は、くだくだしいからよす。既にどこかで書いた。探して読んでくれ。


私は、日本の大学教員の、無能無策安逸を遺憾に思うものである。教員がだめなら、学校の価値はない。日本の大学のほとんどは、屑である。
私立中高一貫校は、今後淘汰される。次は、諸悪の根源、大学教員である。多くの大学をつぶして、または自然につぶれて、特養ホームなり、集合アパートなりに変えたらいいだろう。能無し大学教員どもには、転職の機会を与えたらどうだろう云々。

 

とまあ、以上のような次第だが、私学にも助成金をたっぷりやって、とうとう、授業料まで無償にする構えである。

みんなお仲間とは、私のよく使う語彙だが、まったくもって、日本人の美質である。このままでは都合の悪い連中には、国が、それなりに手助けしてやる。何かを滅ぼそうとする意欲がない。なくそうと努力しない。合理も論理も公平も、無視である。これまでと同じでいいのである。沈没するときは日本列島丸ごとである。だから、常に安心して、互いに逸楽をむさぼるのである。