今は昔。
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ゆとり教育の推進者は、日本政府、文科省(文部省)、マスコミ全般、利に連動する大学関係者の類だった。当時は、ゆとり教育に、だれもが諸手を挙げて、賛成した。反対しようものなら、村八分にして、アカポスにつけないようにしたり、マスコミ媒体から締め出した。
こんな連中が、教育政策の失敗が隠せなくなってくると、今度は、徐々に以前の詰め込み教育へ後ずさりして、首尾よく戻れたと安心すると、居直って、ゆとり脱却などと自慢する。
どうにもこうにも、食えない連中である。
さて、「教育現場にゆとりを」なんて、そもそも変な発想である。
十分に金や暇や心の満足があってこそ、ゆとりある暮らしができるのである。肝心の子供には、そのすべてがない。ついでに義務教育学校の教員のほとんどにも、ない。
それなのに、「ゆとり教育」がやったことは、学校を見え透いたお遊びの場にしただけである。どうせ管理された遊びの「ようなもの」だから、子供が満足するわけがない。どころか、大人の心根に隠された毒を見抜く。
学校教育は、日本の伝統文化を教え込めばいいのである。それが教育であり、それ以外にはない。
何様じゃあるまいし、「心の教育」だの「生きる力」だの「キャリアアップ」だって?
そんなことは、怪しげな俄かカウンセラーもどきや、大学に巣食う売文屋や、テレビ芸人・「文化人」タレント、文科省に収まった小論文の得意らしい青二才にやらせておけ。
現実の子供たちは、漢字を覚え、計算をし、本を正確に読んで、事象を批判できる判断力を持たなければならない。学校はそのためにあるし、それ以外にない。
ゆとり教育は、日本を滅ぼす。
ゆとり教育の反対語が、詰め込み教育だそうである。
ならば、詰め込み教育こそが、教育らしい教育である。
「詰め込み」は、2トントラックに、3トンのガラクタを押し込むことではない。
人の頭は、トラックの荷台ではない。何トンでも積み込むことができる。多少の荷が、荷台から振り落ちたって構わない。後で、拾いに戻ればいいのである。
知識を詰め込まなくて、いったい何を載せるというのだろう。
記憶があるからこそ、創造がある。無から有は生まれはしない。
知識らしきものがあって、新しい創造が可能である。
今さら書くの も恥ずかしいほどの常識だが、なぜか、教育に話が移ると、知識偏重だのガリ勉だの詰め込みだのと、悪いイメージを吹聴する輩が多い。妙である。
知識重視、大いにけっこうではないか。
学校は、知識以外に何を教えようというのだろう。「知識」を従とし、「感情」を主としたいのだろうか。
その「感情」は、ロシア(ソ連)中国(シナ)に都合のよい「感情」ではなかったか(あるいは米国その他国々、またはかつての日本の陸軍大学が喜ぶような)。
社会主義的な「グループ学習」や、戦時中の隣組みたいな「班行動」が大好きで、「班の誰かのやったことは、みんなの責任、班の全員で反省しなさい」が口癖の教員が、どこの学校にも、うじゃうじゃあふれた時代があった。
国家転覆、社会主義革命の先兵を育てたいのなら、知識は不要である。必要な「知識」は、「マルクス絶対」と「爆弾の作り方」の二つがあれば足りるのだろう。
多くの教員達が、知識欲があり、努力をする「ガリ勉」を、嫌がったはずである。
しかし、革命ごっこ気取りの教員は、国民教育の場には、ふさわしくない。
山にこもって、スマホでもいじるがいい。
話は変わるが、知識とは記憶のことでもある。
ベルグソンに「人間とは記憶である」とあったように記憶する。
私たちが生きていることは、記憶があることである。思い出と言い換えてもいい。思い出がなくなったら、それは人間ではなくなる、と考える人もいる。
それはともかく。
教育とは、詰め込みでもある。
皆さんお好きなフランスドイツイギリスアメリカはもちろんのこと、中国朝鮮台湾その他多くの国の、子供は、昨日も今日も明日も、熱心に勉強している。大喜びで、知識を詰め込んでいる。
一方の日本では、ゆとりという「お遊び」が、いまだに大切であるらしい。
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ところで、文科省が大宣伝した「アクティブ・ラーニング」だが、人気が出るでもなく、一挙に古臭くなった。
次には、どんな新曲を出すのだろう。楽しみである。