ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

日本の小学校教員は、世界一である。しかし、教育効果が上がらないのはなぜか。

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日本の初等教育に携わる教員の水準の高さは、誰がなんと言おうと世界一である。その熱心なこと、真面目なこと、繊細な配慮等々、他の追随を許さない。
これは喜ばしいことだろうか。
残念ながら、必ずしもそうではない。

小学校学級担任教員が優秀であっても、かくも教育効果が低いのは、何故なのか。いったい誰の仕業なのか。
この疑問に頭を悩ますのである。

古いフランス映画に、老教員と11人の子供たちとの交流を描いたものがあったように記憶する。
風光明媚な田舎の、モネ風の景色の中で、散歩したり読んだり歌ったり、なんとも、のどかなものである。
あれは教育と言えるのだろうか。おそらく、あれでも立派な学校教育だと言いたいのだろう。

だとしたら、一年中、一日中、毎時間中、どたばたしている日本の先生方のやっていることも教育なのであろうか。もちろん、あれは学校教育であろう。だが、忙しさは自慢できることなのかどうか。
案外、無駄なことで、忙しくしているのではないか。

公教育は、以前に比べて、少しは「まともになった」と言える面もある。
しかし、肝心要の行政、文部科学省が失敗失策の常連である。
学習指導要領の中身もお粗末である。これでは、現場が苦しむだろう。

日本の教育に奇妙に蔓延していた社会主義の影響が、ようやく薄まった。今度は日本国民本来の教育を大切にするのではないか、と期待をさせて背負い投げ、とはこのことである。

誰の陰謀かは知らないが、「ゆとり教育」「総合的学習」等々の戯言を押し立てて、一挙に教育水準を転落させて、教育立国、技術立国としての日本を転覆しようとする作戦が、いまだに続いている。
寺脇某ごときが、その一味だとは言わない。
区々たる一個人が画策してできることではない。裏に、外国の何者かが、蠢いているのかもしれない。
敗戦後の憲法以下諸法規と教育制度とが、疲弊したこともあるだろう。時代もある。時の流れである。転落を防ぐには、抵抗力が必要だが、テレビと新聞漬けの脳細胞には、すでに手遅れである。

覆水盆に返らず。このダメージから回復するには、何年かかることだろう。考えるだけでも、ぞっとする。

こうなったら、逆手をとって、貴殿または私の学校学級だけでも、ちゃんと教えてもらいたい、教えたい。
薄っぺらで怪しげな教科書の、通り一遍で、それでいいなんて考えてはダメである。
あんなものは、無駄なく教えれば、ひと月で、長くても数か月で終了できることなど、いくら何でもご存じだろう。一年もかけて、いったい何をやっているのだろう。

教科書なんか、さっさとすませて、プリントをどっさり刷って、子供の学力を上げることだ。反日で日和見の社会科教科書(T書籍だけではない)、外国語万歳の国語教科書(M村だけではない)の類を、後生大事に、もたもたと開くばかりでは、困る。
学習塾に任せて、知らんぷりでも困る。塾の月謝を、誰もが払えるわけではない。時間の無駄のごとき「インスタント塾」もあることだろう。

「そんな余裕はない、毎年、学期末でも、教科書が予定通り終わらない」と、先生、あなたはおっしゃるか。
残念ながら教員としての能力が不足しているのではないか。

とまでは、言わないが、察してくれ。