ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

スポーツが得意な高校生は、低学力でも入試に勝てる。大学は宣伝のためなら、なんでもあり。

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大学はどこもかしこも経営難である。

「偏差値が55以下ともなると、大学というよりはレジャーランド、暇つぶし、学士を得るための免許センターのようだ」、入試情報に詳しい人の言である。

 

馬鹿げた偏差値ごっこは論外として、大学は、高い費用を払ってまで行く価値があるものかどうか、本人よりもその親に尋ねてみたい。

 

学校は昔から、教員がすべて、である。

子供が学校の主役だ、なんて利いた風なことを言う者もいるが、とんだほら吹きである。教員にろくなのがいないのに、優秀または優秀になるべき子供が、集まるわけがない。

 

とはいえ、世の中には、奇怪な学校がある。旧帝大系は、官立で古い。誰もが名前を知る。受験テクニックの上手な子供が受験する。自ずと偏差値は高くなる。偏差値が高いと、受験者が余計に増える。中には、そこそこの人材も出る。

教員が疑問形でも、学校の名前で乗り切ることができる。

 

一方、私学はどうか。これはもう宣伝しかない。

宣伝のためなら、学力よりも知名度をとる。一例をあげればW大で、なんでもありである。もちろんW大ばかりではない、どの大学でも、すでに名の知れた、または今後有名になりそうな子供なら、学力無視で、どんどん入学させる。

タレント受験者の実例をあげるまでもなく、こういう私立学校のからくりなど、みなさん、すでによくご存じだろう。

それでも有名校に入れば、就職その他、何かと便利なので、多くの無名な受験生は、勇んで受験して、合格さえすれば、喜んで入学するのである。

 

世間と大学の、学生と教員の、奇妙な馴れ合いは、日本独特の一種の文化である。東京都内の雑踏を歩きさえすれば、理屈抜きで体感できる。遺伝形質や学力や勉強意欲のあるなし、学校の良し悪し、教員の質の上下など、関係ないのである。

大学と街と若者と生活とが、いい塩梅に溶け込んでいる。どうしようもない。

 

こんな無駄を許すどころか、むしろ暖かく見守るなんて、日本はよい国である。ぬるま湯どころか、国全体が温泉保養地である。

しかも、これまでも、今も、これからも、世界に向かって「おもてなし」を、喜んで「させていただく」のが大好きな、嬉しい国民性である。お人好しというより、間抜けである。

 

話を戻すと、大学である。

大学は生き残りをかけて戦国時代に入った。と言えば、格好良さげだが、これまでが、ぬるま湯で、大学というだけで、客が集まった。しかし、甘え続けるのも、いい加減にしなければならない。

では、どう戦う気なのだろう。本来は主戦力であるべき教員の「実力」の向上が望めない。もとより、戦力にならない者どもである。

 

以前のことだが、某国立大の教員なんて、ウイスキーが切れると、授業にならない。自分の研究室にはウイスキーがとりそろえてある。脱兎のごとく教室を飛び出して、ストレートで飲む。水も飲む。教室に駆け込む。その繰り返しだが、学生も表立っては非難しないし、できないし、まあ、する気もない。某大の学生であることだけで、嬉しいのである。

 

「大学等における就学の支援に関する法律」とやらで、ますます、大学は、遊技場と化すだろう。おめでとう。