能天気な大学教育を考えると頭が痛い。
大学は制度上では、「大」学、というくらいだから、学校教育の「まとめ」「上がり」「おあいそ」である。
それがお粗末至極だから、金を払う気になれない。食ったものを吐き出したいくらいである。
小中学校は、習うことが山盛りだし、それなりの価値はある。教員も「先生」である。高校も、色々あるにしても、まだ学ぶ場所で、「先生」である。
しかし、大学は違う。どこの何者だかわからない者どもが、「教授」だそうである。思い付きの雑談が、講義だそうである。個室で学生の色気を吸うことが、ゼミナールだそうである。
福澤は偉い男で、学問の目的を、独立自尊にあるとして、「授業」をした。
それでも、永井荷風の母は、学業不熱心の息子に激怒する夫に向かって、あなた福澤さんのところでも行かせればいいではないですか、となだめている。
日本の大学がいかに無駄で不要なものかは、多くの人が自分の胸に手を当ててみたら、納得するだろう。
学業は、その効用があってこそ、価値がある。利だけを言うのではない。哲学であり信仰であり、善であり美でもある。つまりは教養の如きものである。あるいは人は何のために生きるのか、幸福な人生とは何か、何処から来て何処に行くのか、というほどのことである。
結局は、自問自答に極まる。自学自習である。自ら問いを発し、求めて学ぶことである。
しかし、人は集いたい欲求がある。群れるのである。安心したいのである。少しのことにも、先達はあらまほしき事、とやら。
ではあるが、大学の教員は先達であるのか。大いに疑問である。
疑問どころか、爆笑ものである。
大学の役目は、いい歳をした子供の時間潰しではない。大学教員連中を、食わせてやるためでもなく、受験勉強と称するゲームの結果を、見るためでもない。
優れた教員とカリキュラムと環境との合致した場であり、時間と費用とに見合ったものを提供する何ものかである(はずである)。
日本の大学は、その大部分が、無駄無為無策無益、害悪汚点疫病汚物に等しい。
想像力を働かさなくても、各々の学生時代を思い出せば十分だろう。
いやいや、自分はそうでない、価値ある学生生活であった、と断言できる人は、幸いなるかな。
人は、流れ去って二度とは戻らない自分の時間を愛おしむ。善きことあるべきことがあったのだ、と思いたい。なんらかの意味があったと信じたい。
しかし、しかしである、どう考えても、日本の大学は、何物かではない。何でもない。単なる「それ」である。
教員の実力、教育課程、施設、学生への対応云々、すべての面において、不足不満不備である。
せめて就職の安上がりな切符になるのだろうか。実際は、多額の金と時間とを奪うボッタくり業者に過ぎない。
幼少期からの学校生活の成れの果てが、かくの如きものでは、子供があまりに可哀そうである。