ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

通学指導は、甘えの極致。心配なら車で送り迎えしろ。

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学校は学校外の事ごとに関係してはいけない。
家庭が甘える。行政が甘える。

学校は校内の教育に専心すべきである。それしかできないはずである。授業で子どもの学力をつけるのが仕事で、それ以外は枝葉末節である。

例えば、通学指導というものがある。
通学は、どうしたところで、一つの賭である。
歩道を歩いていても車が乗り上げてくるかもしれないし、誰かに連れ去られたり、刃物で刺されたり、拳銃の類で撃たれたりするかもしれない。すべて時の運である。あるいは治安の問題である。
地雷がないだけましである。
そう考えるくらいでちょうどいい。


いちいち心配なら、親が校門まで送り迎えするべきである。それしかない。

校門の外で起きた生徒の交通事故を、学内の3階の職員室から見ていた教員たちは、誰一人席を立たなかったという。子供が校門を一歩出れば、学校と生徒の間の法的な責任問題は終了する。それを曖昧にすると、莫大な訴訟判断の餌食になる。これはフランスのことなので、日本は関係ないと言う人もいるが、不見識である。


通学が、子供にとって危険極まりないことを知っているアメリカでは、大人が子供の送り迎えをする。
下校時ともなれば、学校の前は迎えの車でいっぱいである。でなければ、着色したスクールバスに乗って自宅の前まで帰らせる。
ふらふらと小さな子供が家まで一人で帰るなんてことは、日本とシンガポールだけの特権である。それに甘えているのならば、親も子も、相応の危険を覚悟するしかないだろう。

しかしながら、どんなに気を付けても、種々の事件は、起こるものである。
残酷な事件が頻発というが、あれは歩留まりである。
子供の安全は家庭の領分である。または、警察の領分である。
学校は、学校外のことに口を出してはいけない。肝心の仕事が疎かになる。
登校指導だ、下校指導だ、給食指導だ、安全指導だ、と学校教員は忙しい。いったい、いつ授業をするのだろう。

勘違いしてはいけない。
学校は家庭ではない。
教員は「おとうちゃん、おかあちゃん」ではない。

学校給食を止めろ、学校で児童生徒に掃除をさせるな、と話したら、前者には賛成だが、後者には反対だ、という意見が多かった。

掃除がいけないとは言っていない。
自分の部屋ぐらい、自分で掃除して当たり前である。
しかし学校の教室は、自分の部屋ではない。学校施設である。他人さまの部屋である。
教室を掃除すれば、自分の部屋と勘違いする。そこで昼食まで食べると、家と学校との区別が曖昧になる。

これがいけない。

学校の教室は、外部の業者に頼むべきである。そのための予算を出し惜しみをして、掃除指導などといって、お茶を濁す
昼食は各家庭が用意すべきことである。給食調理員の既得権を守ることとは、別問題である。

給食を食べ続けていると、味覚が破壊される。学校給食は、子供の精神の「荒れ」を助長している原因のひとつである。
このあたりは、現場の経験がないと理解できないだろう。
それほど、私たちは、学校では子供が掃除するのが当たり前、給食があって当然、と思い込んでしまっている。
げに
恐ろしいことである。