身銭を切って、何かを学ぶことを、利巧という。道に知識を拾わないものは馬鹿だ、と露伴は言った。
頼まれもしないのに、自分の意思で学ぼうとするのは、何ものかを得るための最良の方法である。
他人にものを教えることが職業のはずの教員が、自分でも学ぼうと努力するのは、当然のようだが、そうでもない。
教員は、実際のところ、自ら学ぶことも、他人に何かを教えることも、それほど上手ではない。
教える時間数が多すぎるので雑になる。または神経質すぎて肩が凝る。堂々巡りで何が何だかわからなくなる。
授業は一日4時間もすれば十分である。
それくらいが集中できる時間である。あるいは、教員の能力の限界である。
4時間限度説は、児童生徒学生諸君に向かって、言っているのではない。教員に向かって、言っている。学ぶ方は一日10時間でも耐えることができるだろう。
さて、金を出して学ぶ場所は、各種の講習、免許取得、キャリアアップ商売云々、多々あるが、講師の受け持ち時間を見てみると、案外に少ない。せいぜい一日2から4時間である。
大学受験の予備校講師は、どうだろう。多くても、3時間くらいではないか。
毎日、一人の講師が、8時間近くの授業を持つところなどないだろう。
しかし、例えば、公立小学校教員は、毎日、8時間授業が続く。
授業が6時間なら、8時間は変だと問うのは、現場を知らない素人である。休憩時間、給食時間、掃除時間、すべて真剣に気を使わなくてはならない「授業」である。
高校中学小学校と、対象の子供の年齢が下がっていくにつれて、忙しくなる。余裕がない。
普段ばたばたしている教員が、常にはできない研修や研究の時間が生まれるのが、子供の登校しない「長期休業中」であるはずなのだが、そうはいかない。
多くの小中高は7月下旬から夏休みになる。学校は夏季休業である。
子供が来ないから、教員も休ませればいいものを、待ってましたとばかりに○○会議と称する時間つぶしをする。または研修と称して、素人識者や教育委員会筋の舌足らずな講義を受けさせる。無駄の骨頂である。
そんなことをしなくても、教員の悲しいサガである。自分から、しなくてもいい仕事を探し出して、次のプリントを作っておこう。生徒の提出物を再度チェックしよう、図書の点検、倉庫の掃除、果ては、渡り廊下のペンキ塗までする教員がいる。
夏季休業中に、不要な会議や校内の研修その他を増やして、ともかく学校に来させて一日中、ばたばたさせようとする。
なーに世間の目が怖いからである。
教育事務所の職員も、適当な時期に管理職で役所を出たい。または、役所の中で、ちょびっと「出世」したい。
だから、親や議員から、ごたごた言われたくない。
校長は校長で、「うちの教員は夏休みにも、ほれこのとおり、登校して勤務してますよ」、と自慢げにアピールしたい。
彼らを非難しているのではない。誰でも自分が可愛い。それは仕方がないことである。
しかしである。子供がいてこその学校で、いなければ、ただの空き家である。またはクラブが利用する運動施設である。
空き家の時ぐらい、教員を休ませてやれ。相手は一流の教員である(例外は当然ある)。
その一流の教員に向かって、子供のいない夏に学校へ来させて、校庭の草むしりをさせて、どうする気だろう。
あるいは愚にもつかない会議と称する時間つぶしをさせて、満足なのか。
夏休みは、教員を学校に来させなくていい。
教員は、家で寝っ転がっていればいい、と言うのではない。
そうはしておれない、と自ら焦るのが教員である。休ませようとしても、授業や子供の指導のために、草の根分けて探して、何かをするだろう。昔から、今日の今日まで、それが教師の根性である。
少しばかり景気が悪くなったからと言って、行政ごときが、手のひら返したようなことをするな。
世間が怖い。マスコミが怖い。
笑止である。
日本の教員とその制度は、所詮その程度と、世界中から馬鹿にされるぞ。
教員たるもの、30日くらいは海外の大学にでも研修に行って、鋭気と知性のごときものを、養ってこい。そして9月から、迫力のある授業で子供を圧倒してみろ。
それこそが教員の「夏休み」ではないのか。