おぼろげな記憶によれば、 大学で教員たちが行っているつもりになっている「講義」「ゼミナール」と称するモノを、教員自らが、「授業」と呼ぶようになったのは、おそらく慶應義塾が最初ではなかったろうか。
福澤諭吉は、真の意味で先生であった。その風姿が残っていたのだろう。
授業は、教員と子供との関係で成り立つが、言うまでもなく、教員の責任が大きい。それが嫌で、大学教員は、愚にもつかないおしゃべりや時間つぶしを、講義、ゼミと呼称して、ごまかしてきた。卑劣ではあるが、人情である。
田中美知太郎は、宿泊名簿の職業欄に、教員と書いて、宿の主人から大学教授とお書きなさい、と窘められた云々を書いていた。痛烈な皮肉である。
田中美知太郎は、プラトン研究の第一人者で、本物の学者であり、先生である。授業は、とても厳しかった。
さて、話は変わる。
本物の先生が多く生息しているはずの、小中高等学校の授業である。
授業で踊るのは、子供であって、教員ではない。ピアノを実際に弾くのは、指導される側であって、指導する側ではない。
それが教員にわからない。どうしても自分が踊ってしまう。自らに酔ってフラフラになるまで踊る、踊り続ける。
子供は笑って見ている。揶揄する呆れる軽蔑する。
これでは、熱心な先生の立つ瀬がないだろう。自分の教授力や知識学問に自信がないと、ああなる。
教員は、授業中、子供を躍らせるのである。子供自身が、自分で踊らないで、何の進歩があるだろう。身につくことがあるだろうか。
教員は、子供の踊りを、冷厳に見つめて、長短を指摘してやればいいのである。
しかし、これは、総合的学習、調べ学習、アクティブ・ラーニング等の軽薄な流行り言葉とは、全然関係がない。内実がなく、害のみ大きい戯言は、無視するがいい。
授業の方法や見方や「現代教育」について、新しい流れと称するものほど、信用できないものはない。あれは、商売である。保身である。売名である。
授業は万古不易である。
よい授業では、教員は落ち着いている、子供は自ら学んでいる。自ら学ぶなどと書くと、また勘違いする輩がいるだろうが、自分で学ばなくて何を学べるだろう。しかし、そう仕向けたのは、教員の力である。それを忘れるな。
ソクラテスは、どうしてあなたの周りの青年たちは痺れた如くに熱心に学ぶのか、と問われて、自分自身が痺れていなくて、どうして他人を痺れさせることができようか、と答えた。
けだし至言である。
〇 できれば、田中美知太郎 全集を読むのがいい。ある種の名文である。
〇 面白いけれども、手に入らないだろう。図書館でどうぞ。