ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学年トップの教員。授業で子供の何をどう伸ばすのか。読解の方法論。

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授業で、子供の、何を、どのように、どう伸ばすのか。

困ったものである。教員が自分の仕事でこんなことに悩むとは、実に遺憾である。

授業は、子供の学力を上げればいい。つまりは、授業前よりも授業後のほうが、当該教科の理解、認識、意欲、知識が増えていれば、いいのである。

多くの教員は、それを知っているのか知らないのか、無駄に焦って、躓いて、悩んで、もがき苦しんでいる。あるいは、単に時間つぶしと心得て、テキトーに茶を濁す。

胸に手を当てて、よーく思い出すがいい。いったい自分は、小中高大の子供時代に、目を開かれるような、これこそ本物と確信できるような、学問の価値がにじみ出るような、ぐんぐんと知力がみなぎるような、そんな授業をかつて体験したことがあったろうか。自身の学力が向上したことをはっきりと実感できる授業を、何時間受けてきただろうか。

そんな経験がないのに、よい授業をしようなんて、土台無理である。


と、言いたいけれども、これを言っては、おしまいである。

 

ついでに言えば、数学と国語科の教員は、自身が児童生徒だったころ、学年または学級で、1番になった経験のない人物は、不適格ではなかろうか。子供時代に学校で成績トップだった実績と自信とがなければ、大勢の子供の前に立てないだろう。

英才が、そもそも、学校教員になるわけがない、といいたいが、実はそうでもない。現に某知人がなっている。

学校一番の秀才は、学校教員以外の進路を選ぶのが普通で、教員志望はどちらかといえば最優秀な子供ではない。どころか、優秀な生徒であったことすら、ごくまれである。
石部金吉金兜の、真面目人間で、並みか並み以下のコツコツタイプが、現実に就職している教員の、ほとんどである。

そんな学校教員が、国語科の教員としてやっていくことは、案外に難しいのである。
以前も言ったはずだが、担当教科によって、教員に必要とされる能力は異なる。数学英語は楽勝である。理科社会科の類もお気楽である。美術音楽体育系となると、語るもむなしい。宮本むなしである。遊びだか趣味だか何だか、わからない。
ただし、教科坦として採用されやすいかどうかとは、無関係である。私学はコネが効く。公立は、採用数の問題で激烈な競争である。正規採用になってしまえば天国、という話なので、誤解のないように。数学科はそこそこ採用がある。音楽美術は、採用数が極端に少ない。東京芸大卒でも、ご同様。


国語科の教員は、日本語が対象である。日本人であれば、赤ん坊でも使える、知っている。だれでもが、読み書き聴き喋ることができる。
それを教科として教えるのだから、いったい何をどうやってどのように教えていいのかわからない、という輩がいても不思議はない。

しかし、国語力に優秀な子供は、現実にいる。各学校に数人はいるだろう。
その数人の子供は、国語の何たるかを身を持って知っているし、だから教えることもできる。そういった子供は、教員をはるかに抜いている。
馬鹿なと言いたい人は、当該子供に遭遇していないだけである。

進学校には、中高合わせて千人中、2名いた。5百人に一人である。
こういう子供が国語の教員になるべきである。

だから、学校で、本物の国語教員から授業を受けようなんて夢である。甘いのである。

 

大方の気に障るようなことばかり書いたが、何が言いたいのか。
教科別指導が通常であるところの、中学校高等学校においては、国語科教員は割が合っていない。そもそも能力不足なのに、教科としての国語を教えなければならない。最初から無理筋である。しかし、それをあえてする、またはせざるを得ないというところに、教員としての冒険と面白さがあるのだろう。
教えられる子供こそいい迷惑だが、それが世間である。諦めるがいい。

 

お喋りが過ぎた。次回は、教員向けに読解授業の方法を話す。

 

 

 

文庫で読むことができるとは。。。。