ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

医者が、死ぬまで医者なら、教員も同じこと。 芯のない教育で、子供を迷わせてばかり。

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夕涼みである。知人来りて言うには。


近頃の校長は変わっている。
校内で、教職員が「校長」と呼ぶと、怒り出す。「○○校長先生」と呼ばないと機嫌が悪い。教頭も以下同文で、同僚教員が「○○教頭」と呼ぶと、ぷいと横を向く。
「○○教頭先生」と言ってやらないと、気分を害するらしい。
これはまた、面妖な。

以前はそうではなかった。
地域から、学校は信頼され、教員に教師としての威厳があった(ような雰囲気があった )。校内では「校長さん」、または「××校長」「○○教頭」で通用した。それで目くじら立てることではなかった。
どういうわけか、今では、校長や教頭は、妙に繊細で神経質なのである。

原因は、実力不足と自信喪失である。
誰からも尊敬も信頼もされてない(ごくまれな例外あり)。無様な顔見せパンダが校長で、パンダのご機嫌取りが教頭である。せめて、同じ校内の教職員には、「校長先生」だの「教頭先生」だのと呼ばせて、「アイデンテテイ」を確認したいのだろう。
げに浅ましいが、それが人間である。目くじらを立てるには及ばない。

教員は、今でも子供や親からは、表向きは、「何何先生」と呼ばれている。それは当然である。なんと言っても学問を直接に教えてくださる師匠である。この人たち以外に「先生」がいるであろうか。いるわけがない。
だから、学級担任や教科担任が、「何々先生」と子や親や同僚教員から呼ばれるのは当然である。

しかし、校長や教頭は、ここには含まれない。直接子供を教えない者は、「先生」ではない。きちんと区別しなければならない。
対外的に学校の「代表」のようなものであっても、直接の子供の先生ではない。事務手続き上の管理者に過ぎない。
実質的に教員を指導できる経験や学識のある「校長」など、滅多にいるものではない。無理な相談である。

親も、校長のことを、教員への悪口や陰口を受け止めさせる相手くらいに考えている。
このあたりを間違わないようにしないと、また不幸な「○○校長先生」を作り出すので、老婆心ながら言っておく。

ところで、学校という団体・事業所の、対外的な代表として、校長が雇われている。

細々と民間からの校長採用も行なわれるようになった(無論、そのほとんどは失敗した)。
外部からの雇われ校長は、勘違い人種が多いので、失敗する。といって、校長職が、常に教員上がりである必要はない。
ケースによっては、教員経験者でない方がよい場合もあるだろう。しかし、いかにも、人材不足である。


教員は採用されてから、退職のその日まで教員である。医者は死ぬまで医者だろう。ならば教員も死ぬまで教員である。
教員は、現場教員として、その職責を全うすることによって、実力の向上や技量の円熟がある。

それが不満だったり、耐えることができないのなら、辞めるしかない。

管理者としての校長職の範囲を明確にするならば、学校現場の様々な問題も、少しは、すっきりするのではないか。

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ということなのだが、少し脱線する。
太古の昔から、子供が学ぶべきこと、教員が教えるべきことは、決まっている。読み書き算盤である。
子供に素直に習得させればいいものを、愚かな流行に踊らされて、勝手に迷う。
大人が迷うのは、自業自得だから許されても、肝心の子供を迷わせて、どうする気だろう。

元凶は文科省や追随する大学教員、教育ビジネス関係者である。出版社は新規な材料を餌に書籍の売り上げを、教員もどきは原稿代金や講演料を稼ごうと必死になる。
つくづく日本の教育は、おかしい。

国民に根ざした宗教観がないから、こんな有様になる。
ご近所のよしみで付き合いはよくても、外部からのショックに弱い。あたふたと大騒ぎして、簡単に屈服されてしまう。精神の支柱がぐらつく。というより、最初から、支柱がない。

教育は国家の文化伝統を守ればいいのである。日本の古典を読み、数学を学び、わかりやすい写生文を書くことができればいいのである。これを5年続けたら、だれでもそれなりのモノになる。
その後に、「個性」や「可能性」とやらが、もしもあるのなら、出てくることだろう。