ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

小学校教員、親の文句で墜落。中学校教員、生徒対策で崩壊。高校教員、仲間内の牽制で自滅。大学教員、安楽椅子で腐敗。

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知人の教員の言う通りかどうか。

小学校教員は、親の文句で墜落することが多い。近頃の新採用教員は、鈍感な子が多いので、墜落機は少なくなってはいる。幸いである。

中学校教員は、一部のお上品な地区の公立中学校はともかく、生徒対策で苦労が絶えない。授業下手を子供に見抜かれて、教員が自己崩壊することがある。

高校教員は、生徒の扱いは小中学生に比べると格段に容易だが、教員同士の無駄な張り合いで、疲労困憊してつぶれる。毎年決まって一定期間、病休をとる教員もいる。精神的休養だろう。同じ教科内の他の教員は迷惑である。

大学教員は、教員と呼ぶのも不快だが、すべて自己流で趣味道楽の世界だから、すぐに腐る。もっとも、学生も同じようなものだから、グルである。


さて、ここからは、本来の「先生」である小中学校の教員について言う。

教員たるもの、子供の知性を鍛えているのだろう。日本国の伝統文化を教えているのだろう。または、社会人として最低限必要な基礎基本の学業を指導しているのだろう。おそらく。
子供とその親から見れば、唯一無二(その時点では)の「先生」なんだろう。たぶん。
ならば、職業として、するべきことをしている教員も存在するだろう。どこかに。

少しは自信を持て。

学校教員は、批判に弱い。だから、うっかりものが言えない。言わない。だんまりを決めこむ。
そのくせ、子供には、小学校入学以来、自分の意見を言えだの、情報を発信せよだの、ディベートの真似事だのをさせる。近頃は、取って付けたようなアクティブラーニングとやらで、茶を濁す。
横書き用語でごまかして、何かをしている気分になりたいのだろう。例のごとくの文科省職員の予算分捕り策の、一例である。
アクティブ云々の類は、たっぷりの時間と気持ちの余裕とがあって、しかも、米国のような露出大好き、はったり上等の、おしゃべり文化があって、ようやく通用する代物である。日本には向かない、その必要がない。


批判に対して、特に弱虫なのが、各学校長である。
定年まで無難に毎日を送ることしか考えていない。少しでも批判されると青ざめる。
名目上、教員や校長の指導監督権を持つ行政(「教育委員会」と称する教育事務所職員)も、役所の上司や議員には、びくびくのくせに、各学校長には急に居丈高になる。校長会で苦言を呈したり、学校宛の通知や通達で締め上げる。
その余波で、校長は、教職員に対して、「居丈高」の真似事をする。
あれもこれも、若い頃から批判されることに慣れていないので、何か言われると、抗弁すらできない。
抗弁しなければ、それは、無抵抗と同じである。認めるしかないのである。
だから、ともかく批判されないような工夫、策略ばかりが上手になる。

人間はそういうもので、誰でも自分が一番かわいい。気持ちはわかるが、どうせ教員である。観念するがいい。
教育現場は、生の人間相手である。未熟な「ガキ」が相手である。わがままな「保護者」が相手である。
こんな仕事で、どこからも批判されないように行動していたら、ろくなことにならない。
体面重視、内容無視、実効絶無、題目空疎、時間つぶしになる。現に、なっている。
残念至極である。