ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

実力のない教員。学校管理職は楽勝。仕事をしているふり。

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某人いわく。

教員は授業で、子供たちに、何かを学んだという実感を持たせることが、仕事である。しかし、できていない。
教える内容への知識や指導技術に、自信を持っている教員は少ない。故に、徹底して教えることが、できていない。

 

よい教材が少ない。よい教材をどうやって選択するかが、わからない。

教員は、授業を恐れる。保護者や同僚への遠慮からか、何者かへの忖度からか、当たり障りのない指導をする。

子供の個性を尊重する授業とやらで、通り一遍の時間つぶしの指導の、逃げ口上をする。

 

教員組合特有の「空気」が、蔓延している学校がある。

違和感を感じる教員がいたとしても、全体として同じ方向へ進んで行かざるを得ない。みなさんご存じの、同調圧力である。本音では同調が大好きなのである。指圧じゃあるまいに、押し付けられるのが快感である。


思い込みや間違った「信念」から脱出するためには、大きな力が要る。そんな余力は残っていない。あるいは、もとから、ない。

毎日の「指導」で疲弊して、目前の問題を、広い観点から余裕をもって考えない。冷静に対応することができない。したくない。

教員は、終日ばたばたと忙しく駆け回っていさえすれば、または、その芝居が上手ならば、たんと仕事をしたような気分になる。案外に評価も高い。実際は、肝心なことができていないのだが、当人は、
熱心にやっている気になって、自分で自分に満足してしまう。疲労が、今日も心地よい。がんばったなぁ。
夜遅くまで職場にいることが、仕事熱心な教員の証であるかのような錯覚をもつ。

長時間、職場に残っていても、無駄なのに、仕事が遅いだけなのに、あるいは能力不足の証であるのに、同僚教員へのアピールにさえなれば、それで十分に幸せである。

教員は女子供(おんなこども)を相手にする仕事だ、と言えば、あなたは怒り出すだろうか。(ジェンダー論はさておく)。
しかし、どう頑張ってみたって、教職は、それ以下でもなければ以上でもない。だから、あんまり力むな。勤務拘束時間が過ぎたら、さっさと帰れ。だらだら残られても迷惑だ。

教育は百年の大計、なんて胸を張ってみせたって、本当にそうだとしたら、今日のこの日は、≒100×12ヶ月×31日を分母として、分子の一日にすぎないはずだ。威張るほどのことか。

各学校の管理職は、表向き平静を装う毎日だが、本音は自信喪失である。元々自信なんてなかったが、世間は、校長なら、それなりだろうと、おだて上げた。だったら、自分でもできるのだろうかと、勘違いで成り立っていた体制である。現実の問題解決力は、ほとんどない。

教育事務所の指導室に情けない顔で相談に行って、まだ若い指導主事の、ご指導を仰ぐ。

酒かパチンコか教職員や同僚の悪口か、そのくらいしか逃げ道がない(教員に比べて自殺する者が少ないのが不思議だが、管理職を目指すタイプ特有の図々しさで、自殺と親和性が少ない)。不安や自信・実力不足で、精神錯乱し、逆に威張りだす者もいる。


だからなあ、言ったろう。

教員は一生教員をやれ。管理者は、外部から雇え。教員上がりで回そうなんて、バイオエネルギーではないんだぞ。
教員も教員で、前の席に座れて(教頭・校長の机)、ようやく所願満足なんて思わないほうがいい。泣くようになる。
泣くのが当人だけならいいが、周りまで泣かせるようになる。はた迷惑だ。

平成の時代は、管理職には過ごしやすい季節だった。

昭和の時代は、教職員組合に力があった。教員も誇りが多少はあった。校長教頭は実力相応でびくびくと生きてきた。

平成になると、教員組合は壊滅状況、教員達も学力低下で、誇りもなく、元気がない。日々の授業でアップアップである。これは、教員採用試験が甘くなり、その結果、低学力の教員が増えたことにも原因がある。
校長にとって、こんな順境の時代はかつてなかったのである。これからは、どうだろう。

 

さて、令和3年4月現在、世の中は、コロナごっこで、うまくかき乱されて、ますます学校管理職その他諸々にとっては、大楽勝の時代になった。

というより、すべての公権力、つまりは国家及び地方公務員の時代になったのである。ついでに言えば、情報操作関連業社(ネット、テレビ、新聞、マスコミ系)の、もっとも稼げる時代になったのだ。

おめでとう。