ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

高校教員の授業が、お粗末すぎる。大学教員は、授業ができない。コロナウイルスと学校遊園地。

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夏である、暑いのである。

その中でも、当家では知人が時折来る。缶ビール、またはノンアルコールビールとやらを飲みつつ、知人が話すことには。

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高校の授業は、小中学校のそれに比べると、お粗末である。高校教員は、「授業」を知らない者が多い。
子供の習得能力を無視して、自分流と言えば恰好がいいが、学校教員としての授業力を、全然身につけていない。

これは結局、当該教員の授業の、欠点その他を、細かく指摘してやる第三者がいないからである。
教科ごとの殻に閉じこもって、プリントを作ったり、教科書に書き込みをさせたりするのは、よくあることだが、詰めが甘い。


何事も、外部の批判にさらされなければ、すぐに腐る。腐るのは、まだ新鮮な時があったのだから救いもあるが、そもそも最初から不味すぎる、または毒であるから、有害である。

ここに登場するが、各都道府県教育事務所(教育委員会とやらで総称)所属の「指導主事」という代物だが、いったいなにが指導できるんだか、名前負けの典型で、哀しい。
他人の授業が分からないのは、見識や経験の不足で仕方がないにしても、見え透いたおべんちゃらを並べたてる。

「何々指導主事」と、紹介されたくらいのことは、言わなければならないので、頭真っ白、しどろもどろで、聞いてはいられない。教員らに失笑されてしまうのが、せいぜいのところだが、笑う教員もお互い様である。

一体全体、高校は研究授業や公開授業が少ない。全然しない学校も、多々ある。
私立学校は、公開研究授業はほとんど存在しない。無法地帯である。
公立高校は、内部で密やかに「ようなもの」をして、褒めあって、研修を済ませたことにする。

高校教員の授業力が、伸びるわけがない。伸びなければ、残るのは衰退するだけである。そもそも、最初の立つところが、平地以下だから、落ちていく先は無限の谷底である。

不憫なのは、肝心の高校生である。
しかし、自学自習とはよく言ったもので、勉強に意欲を持つ子供は、自分で勉強する。自分自身でやるしかない。だから、無駄もあり、それなりに少し伸びることもあるが、悲喜こもごもである。なんのための高校だろう。

それにしても、通常の高校レベルの授業ができる教員を、なんとしても集めないと、先が暗すぎる。
つくづく、専門という言葉にはご用心である。いったい何が専門なのだろう。他の多くよりも、卓越した技量があるからこそ、専門家である。担当教科の枠内ならば、優れた授業ができるから、教科担当教員と言えるのである。

授業のいろは知らず、教科の知識能力もなくて、それでも教員が務まるのは、ひとえに対象が、一応、入学試験を経てきた高校生だからであり、義務教育期と大学との間の、中途半端な時期の学校だからである。または高校生自身が、お粗末すぎる連中の集まりだからである。

 

ごくわずかの公立高校の、希少な授業研究は、高校教員の消えかかる良心の証でもあるが、その実態のお粗末さに、暗澹たる気持ちになるのである。

大学教員は、そもそも授業がわかっていない、わかろうともしない。これについては、また。

ー追記ー

もともと、日本のすべての学校は遊園地だった。日本で、大学と称している学校が特にそうで、集まってくる者も遊び人で、食する教員も同様だった。

コロナごっこで、大学は閉じた。潰れるかと思いきや、学校が以前にもまして機能不全であるのにもかかわらず、教員の給与は、昇給はもちろんのこと待遇はよくなりこそすれ、下がることはなかった。一方の学生は、自宅または小屋のような下宿・アパートに閉じ込められて、ネットに興じた。または、アルバイトを求めてうろついた。心ある学生は、勝手に勉強した。

 コロナウイルス騒動は、公務員を、特に議員や教員を、そしてマスコミ、特にテレビを、甘やかせて空前絶後の利益を付与した。なんて楽しいコロナパンデミックごっこ

どうせ、風邪である。気になるのなら、毎年ワクチンとやらを、一生、打ち続けるがいいだろう。

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とか云々。