ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

おせっかい教育は、競争を嫌う。オリンピックメダルとコロナ感染者数は、多いほうが嬉しい。

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日本の教育は「おせっかい教育」である。
または、甘ったれである。外聞屋である。事勿れ主義である。
もちろん、「悪い事」はない方がいい。誰でも、無難に過ごしたい。

しかし、平穏無事な毎日は、実際のところでは、これまでもなかったし、今もないし、これからもないだろう。
無事だと錯覚できたのは、アメリカの名ばかりの核の傘と、他国の混乱と、島国とのためである。
運がよかったに過ぎない。

世界は爛熟に突入した。地域紛争は、ガス抜きの一種である。
必要悪としての紛争をどこかでやっていなければ、本体そのものが爆発してしまう。これはまずい。だから、常にごたごたはある。無理にでもつくる。これが国際政治の実態で、あちらこちらで、小規模な爆発があるから、全体として安定するのである。

諸外国からすれば、日本はお人好しで勤勉な、使い勝手の良い「民族」である。水槽の中で、外国に都合よく利用されるために、よたよた泳ぐ観賞魚である。ただし、温度管理は米国の役目である。スイッチを切られたら、全員丸ごとお陀仏である。

日本が今後も無難な日々を続けることができるのだろうか。それほど、世界は、日本に対して、甘いのだろうか。


さて。
昔々、各学校は、夏が近づくと、子供に紙鶴を折らせて、反省したふり(いったいなにを子供に反省させるのだろう。日本が社会主義国の一員になっていないことへの反省か)をさせていた。冬休み前は、「アジアの人々へ自分たちができること」とやらを神妙に作文させた。


平和教育ごっこ」は、完全に時代錯誤である。「反核のうねり、人民に権利を」と叫び続ける教員の発想は、不勉強を通り越して、想像力の欠如、または他国の工作員の成れの果てである。

戦後は終わってない。平和を唱えていさえすれば、鳩ポッポが持ってきてくれると、本気で信じている大人が、今日でも、いるのだろうか。

驚くなかれ、いるのである。いっぱいいっぱい、いるのである。

 

日本人は、国の存続や安全に、過度の信頼を持っている。起こってほしくないことは、起こらないと勝手に決める。信じ込む。その最適の例が政府役所の連中で、慣例順守はお得意だが、前例のない事態には、全く歯が立たない。


他人への曖昧な信頼が、日本人の常識であり信念だ。個人の能力への要求の限度が、都合で上下する。

聖徳太子の「和を以て尊しとなす」は、一か所に定住して農耕を営む地域限定型社会の日本だから、言えたことである。
一方、大陸の移動型社会では、和ではなく、戦であり、殺である。実力優先の競争社会で、和の入り込む余地がない。一時的な和のようなものは、利益を共有できる場合だけで、愛想笑いの仮面の下で敵意が剥き出しである。

ひとり日本だけが、みんな一緒の仲良しごっこが大好きで、戦うことが嫌である。
こんな根性で、国際競争社会で、勝てるのか。

外国に勝ち続けることは至難であり、また常勝の必要もないのだが、国家の独立と民族の存続は、守らなければならない。

不景気が続いたので、慣れない「競争」にも、少しばかり、慣れてきたようである。
再び「能力主義」が見直され、肯定されるようになった。
しかし、日本の国民感情は競争を好まない。教育現場では「みんな仲良く、みんな一緒に」の意識が、固い根のように張っている。


私たちに、「競争原理」「能力主義」は可能だろうか。競争は、いかにも「辛い」ものである。

諸外国の学校教育では、「競争」を、日本ほどには、嫌っていない。
むしろ、望ましいこととしている。競争のための努力は、善であり、進歩の原動力と考えられている。

実際には、日本の子供も、競争が大好きだ。努力して、自分なりの結果を出す。これは、自然な感情だろう。
競争には1番があれば、2番手3番手があり、当然勝ち負けがある。だからいけない、と自称「平和主義者」「平等主義者」らは、おっしゃる。
しかしながら、この手の発言には、注意が必要だ。どこか、胡散臭い。嘘がある。自分だけ、高みの見物と決め込む傲慢さがある。

競争、大いにけっこうではないか。
競争なくして技術の進歩はない。競争なくして、学問の進歩はない。
能力主義」と「競争主義」とは、双子の兄弟である。

子供は、運動も勉強も、競争としてとらえている。結果を素直に受け入れる。
勝ち負けに「傷つく」のは、当事者の子供ではない。実は大人たちである。

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オリンピック騒ぎが、先からのコロナごっこ騒ぎに加わった。大いに結構である。マスコミは、一方では、感染者が増えたと怪しく笑い、その一方では、メダルがどうのこうのと、卑屈に喚く。

食えない連中である。