ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員同士を競わせても無駄である。子供や教員のレベル、能力不足は仕方がない。

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二流三流の中学や高校では、と書くと、怒り出す人がいるだろうが、その実、誰でも、学校には、一流から末流まであることは知っている。

同じ二流三流であっても、教員にとって、勤務校や担当教科によって、天国と地獄との差異がある。
天国は、のんびりゆっくりやれる教科または学校である。
地獄は、どういう理由か定かではないが、同一学年の同一教科を複数の教員が指導する学校である。のみならず、学年をまたがせる。

ここまで言っても、関係者以外は理解しにくいだろうから、説明を加える。

 

教員ヤマダ(仮名)は、高校2年の国語科担当である。
さて、高2は6クラスある。ヤマダは2年の3組4組の現国及び、1年の1組2組の古文、そして高3の6組の漢文を教える。

このように複数の教科と学年を担当させるのは、教員同士を互いに牽制させ、競わせて、へとへとにしようという魂胆である。
もとより、生徒の大部分は勉強なんかしやしない。それでも、学習の強化月間、国公立大へ1人でも、とかなんとか、学校中が、予備校のごとき熱にうなされる。
もちろんこれは、作為的である。いつの頃からそうなったのかは知らないが、そうなった。

 

不均衡不公平不効率な、このやり方を、長年、変えるものがいない。校長は無論、このままがよろしい。教員に余裕を持たせて、学校管理批判などされてはたまらない。すべからく、毎日の授業で忙殺させて余裕を奪っておくに限る。

個人に過大の負担を与えて、全体の辻褄というか虚飾を保とうとするのは、旧日本軍と同じことで、遠からず瓦解することになるだろう。

 

全国の教員の能力は実際のところ、大したことはない。というより、能力不足の者がほとんどである。これは教科によっても違うし、地域年度によっても変動するので、数値化はしないけれども、経験的事実である。
しかし、もともと、学問を他人を教えることは、誰にでもできることではない。学問は自学自習が根本で、自ら問いを立てることのできない、または立てようともしない者どもに向かって、学問を教え込むのである。並の能力で、できることではない。

 

学校教育は、無理の上に建てた掘立小屋である。

とはいえ、慨嘆しても仕方がないので、修繕方法を見つけるのである。

同一学年の同じ教科を一人の教員に担当させる。
当該学校の子供や教員レベルに合わせた授業をし、無理な進学先を設定しない。
国数英などの受験科目の教科担当は、時間数校務等で、他教科教員よりも優遇し、実力期末学年試験等の採点は、体育美術音楽理科社会系のごときテスト作成安直教科の教員にさせる。そのため、テスト作りを工夫し、簡易な答案形式とする。ただし、記述回答は、担当教員がする。

 

というようなことは、笑い話のようだが、わかる人にはわかるだろう。

 

 

 

一種の名文。子供に暗唱させたり、要約練習させるにはもってこいである。

うひ山ふみ/鈴屋答問録 (岩波文庫 黄 219-1)

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