ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

暗すぎる小中学生の顔。受験は、親子の高額な楽しみとなる。

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某教員夫婦、曰く。

近頃の小中学生の顔がどうも変わってきている。
たとえば、昭和の中ごろと終わりごろ、そして平成の最初と最後、学校で子供の顔を見ると、明らかに変化している。

一言で表すと、だんだんと希望のない顔になっている。暗い。幸せそうでない。
不幸のどん底だ、とはいくらなんでも、言わないが、つまりは、どんよりした顔つきなのである。


さて。
小学生を例にするなら、小学6年生の、11月または12月から、翌年3月の卒業までの時期は、小学校生活で一番よい時だ。
卒業は近づく、次の中学生活が楽しみだ。教科全体の学習方法や、世事の事々の入り口が漸うわかってきた(ような気がする)頃である。学級のみんなと友達になって打ち解けた、解けすぎた。担任とも仲がいい。毎日が楽しい、楽しすぎる。
中学でも十分やっていける自信もついた。

私学や国大付属を目指す連中は、自信満々、受験日が待ち遠しい。それはゲームに似て、緊張感と問題に挑戦する面白さがある。

あれもこれも、すべては小学6年生の担任次第なのだ。すでに何度も言ったように、小学校6年生の担任教員は、これまでの子供の学校生活、今の生活、これからの学校や勉強方法、場合によっては就職にまで、大きく言えば、子供の人生を変える力がある。
絶対に侮れないのだ。

しかし、しかしである。
こんな担任に出会うことのできた運のいい子供は、いるにはいるが、あなたの子供は、たぶん出会うことは無理である。
なぜなら、最適な担任教員を得ることは、盲亀の浮木だからだ。力ある教員の絶対数が極度に少ない。千人にひとり、万人に一人である。


であるから、夢のような幸運を願っても無駄だろう。小学校6年の担任教員は、子供の人生を決める影響をもつのは事実だが、ともかく、無視するしかない。

優れた教員は、どこかにいるかもしれないが、あなたの子供が当たる確率は、宝くじである。最初から諦めたほうがいい。ほとんどが外れだから、外れでいいのである。外れが公平なのだ。当たりは、むしろ恐れるべき僥倖なのである。


ところで、話を戻して、現代の小中学生の顔が、幸せそうではなく、むしろ不幸な顔つきなのは、なぜだろう。
その答えは、あなたが想像する通りだ。

正解は、「時代」である。日本は、よくならないだろう。落ちる一方だろう、と誰もが感じている。

世相は暗い。明るい展望なんかない。精神的貧乏である。
親は今後が心配である。わが子の将来を気に病む。自分の老後も真っ暗である。
子供は、そんな家庭で、親を見ている。どうして、明るい顔で毎日を過ごせるだろうか。

 

子供は学校で、どうすればいいのだろう。
親がかりで低学年からチェーンの学習塾及び家庭教師等で、ひたすら中学受験の準備をさせる。そんな「幸せで輝く」ような小学校生活を送らせようとする家庭もある。そのほとんどは失敗するけれども、受験のその日までは、親も子も、かりそめの幸せに、酔えるかもしれない。なんにせよ、目的があることは必要なのだ。しかし、この目的に酔うためには、あまりに金がかかる。
もっとも、快楽には大金がかかるものである。稼ぎのいい夫に感謝するしかない。

令和になってからは日が浅い。これからの子供の顔は、どう変化するのだろう。

小学生や中学生の顔のほかに、高校生の顔は、大学生の顔は、どうだったろうか。どうなるのか。
考えただけでも、ぞっとする。
あなたが実際に見て、感じるしかない。
現役の教員は、言うまでもないことだろう。授業中に、つくづくと子供たちの顔を、見るがいいだろう。

 

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以上の文章は、コロナ騒動の前に書いたものだ。コロナごっこが始まって、どうやら、教員は安楽になり、それに連動して、子供は、ますます怠惰になった。

それでも、受験は、しなければならない。生きている限り、受験はある。人生は永遠の競争なのだから、それは時として、自分自身とも競争して、勝つか負けるかするだろう。これが、人間の業である。