ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

働きに応じた給料をやれ。小学校教員と大学教員では、手取りが逆。教員としての円熟と能力。

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「人間は、働きに応じた給料を得るべきではないか」
正面から問われると、誰もが伏し目がちになるだろう。
給料分の仕事をしているのは、いったいどこにいるのだろう。

公務員は不思議な商売で、景気によって評価が左右される。特に教員はそうである。
景気のいい時は、教師は貧乏で、結核だらけと言われた。
景気が落ち込んでくると、教育公務員はエリートで、採用試験も難しく、簡単には受からないと噂される。

実際のところ、平均をとれば、教員は、税金をたっぷり天引きされた後の、わずかな俸給で細々と暮らしている者どもである。
夫婦そろって教員であるか、どちらかが公務員または看護士等の安定した職についていなければ、家を建てることはできない。一人の儲けで妻子を養うのは、節約が必要だろう。

いや、私の場合は余裕がある、と言うのなら、それはそれで、立派ではある。おめでとう。

さて、公務員の中で、その少ない給与で、手取り額以上の仕事をしているのは、おそらく小学校学級担任と警察官ぐらいのものではないだろうか。

小学校学級担任の給与は、現在の2倍以上にしてもよいのではないか。学級の何十人もの子供の将来に、恐ろしい影響力を持つのである。3倍でも少ないくらいだ。
しかし、教員によりけりである。かえって、損害賠償を請求したいくらいの者もいることだろう。

大学教員のそれは、現在の半分でも多すぎる。「仕事」の割に、高給に過ぎるのだ。
大学教員に、小学校の学級担任をさせてごらんなさい。三日と、もたないだろう。


世間とは、不公平の別名である。
不公平はいけない、と言っても無駄である。どうせ現実である。
不公平なくせに、公平を装うな、と言いたいのである。

小学校教員から市役所勤めに転じた男が、述懐するには、「よくあんな仕事ができていたなあ、学級担任はたいへんだった。役所は楽だ。もう学校現場に戻る気はない、二度とやりたくない」
世間の勤め人の多く(役所勤め、大学教員、政治屋、諸企業等)は、小学校学級担任から見れば、「遊び」で、給料をもらっている。

それもまた、運であり、選択である。
学級担任に不足しているのは、大学教員のレトリックである。
小学校教員が、無能な大学教員どもを駆逐して、彼らの分不相応な給料を、そっくり頂くことが、世のためになるだろう。とはいうものの、レトリックには時間と練習とあらゆる意味での余裕とが要るのである。学級担任には、永遠に手に入らないものばかりである。

 

ところで、教員職は、仕事として、円熟するものなのだろうか。
円熟できることもあれば、使い捨てになることもある。

円熟しやすいのは、大学院や大学の「高等教育機関」に勤める教員である。
円熟しにくいのは、小学校などの「初等教育機関」に勤める教員である。
なぜ円熟しにくいのか。もうお分かりだろう。
専門性が希薄で、何でも屋だからである。
扱う対象が幅広い、準備時間がない、労働時間が長い。
過酷な勤務条件に加えて、子供、親、地域、行政その他の監視と攻撃とを受けやすく、防御方法を持っていない。
時間外労働は常のことで、落ち着いて一つのことに取り組ませない。仕事内容が曖昧かつ変化が急である。対処の仕方を迷わせて、あえてわからせない。
非常に不利な環境に置かれている。
以上は、現場の小学校教員の愚痴と片づけることもできる。

 

大学や大学院の教員は、小学校教員の対極にある。専門性が強いとされている。専門的職能は、差別化しやすく、特権となる。
どういうわけか、担当時数が著しく少ない。授業らしきものをするための準備も不要または少量であり、勤務環境に恵まれている。教育対象の人数が少なく、「授業」についての外部からの批判や検証が皆無である。

 

中学や高校の教員は、どうなのだろうか。
その教員の能力によって異なる。生徒指導のできない中学教員、教科の学力のない高校教員は苦しいだろう。

小学校教員は、専門的能力がいくばくかあったとしても、勤務環境によって、遅かれ早かれ、ただの何でも屋、常に慌てふためく教員、となるのが通例である。
それに比べると、中学や高校の教員は、大学や大学院の教員並の「円熟」のための環境が、一応ある。だから、円熟できるかどうかは、本人の能力や生き方の選択による。

 

さて、それにしても、小学校教員は、どうやって円熟すればいいだろうか。
現場では、無理なようである。
だから、多くの小学校教員は、その目標が管理職くらいしかない。
教員としての円熟が無理であるなら、学校管理職という「転身」によって、自分を満足させたいのである。子供へ直接教えるよりも、職員室で日がな一日、事務員のまねごとをしたい。中小企業の中堅管理職気分を味わいたい。一日でも早く、教頭校長になりたくて仕方がない。
これも人情であろう。しかし、哀れで不幸なことでもある。

誰にとって不幸かといえば、すべての小学校教員にとって不幸なのである。その職業に内在する目的が、管理職になることにしか、ないのである。

教室現場で、教員として円熟できる方法を探っている人もいるだろう。それはそれで、立派な見識だが、実際には厳しい。
というのも、世間はどのような組織であれ、管理する立場を、上と見る傾向がある。
社会は、優秀で円熟味を増す教員を(少なくとも小学校現場では)、必要としていない。

初等教育の教員の環境を、教員としての円熟を目的として、それが可能な条件に、整えることが必要だが、現実には難しい。世間は教員の円熟を必要としていない。

しかし、学びと職業とが、解離しない点では、小学校であろうと大学院であろうと、教員職は有利な仕事である。この点については、また書く。