ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

先生に感謝の涙。医者と教員は、どちらが「先生」なのか。

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医者と教員とは、世間で先生と呼ばれる職業の典型だろう。
しかし両者を比べると、収入の面からも社会的な認知度からも、大きな違いがある。
医者は病人相手である。教員は、健康な子供が相手である(一部例外あり)。
どちらが社会的に建設的な仕事かと言えば、断然教員である。
ところが、世間は、医者の方を、収入でも社会的評価でも、価値ある仕事として認めている。

なぜだろうか。

簡単である。
誰しも我が身が一番かわいい。

教員は子どもを伸ばすことができるが、瀕死の子供を助けることはできない。
医者も同じで、死にかかった子どもを助けることはほとんどできないが(それどころか、不手際で往々死なせてしまうことがある)、まれに助けることがある。子供の親にしてみれば、こんなに嬉しいことはない。

健康はありがたいものだが、健康なときは、そのありがたさが実感できない。
少しでも不具合があると、健康万歳となる。歯が痛くなっただけでも、私たちは、自分は地獄の渦中と考える。
とすると、その痛みを和らげたり、なくしたりできるなら、これはもう、神様仏様である。
だから医者は、ありがたいのである。

しかしこれらは、あくまで尋常ではない。異常である。異常なときに役に立つことが、それほど立派なことだろうか。

繰り返すと、教員は、健康な子供に対して、その子供の成長のために学問を教えている。
これは相当に価値のある仕事である。立派な営みである。本当の「先生」なのである。

 

あえて教員のために言ってやろうか。
給料をたんとやれ。暇もやれ。優秀な教員は(そうでもない教員も)、暇だからといって遊びはしない。彼らは悲しいほどに勤勉だ。
授業研究だの、なんとか指導だの、研修だので、目一杯の毎日を送っている(だから、立派だとは言わない。余裕のある方が良いに決まっている)。
教員は、他人が一々チェックしなくても、真面目なのである。大企業社員や役所の職員や政治屋とは、大違いだ。

子供や親には、そんなこと(教員の勤勉さ有難さ霊験あらたかさ)は、いずれ分かる。
なぜなら、子供が実際に伸びる。担任教員を憎く思っている親も、我が子の成長を目の当たりにすると、認めざるを得ない。
形式的なアンケートなどしなくても、すぐに、結果が出るのである。

学校教員は、まさに「先生」である。敬すべき存在である。神聖にして、何事かおわしますのである。随喜の涙である。

小学校高学年の担任の大切さは、前に話したが、何度でも言う。
小学校高学年、特に6年生5年生の時の担任は、子どもに、絶大な影響を及ぼす。
この時期に、強い学問的感化を子供に与える担任教員に会うことができるか、それとも、並か並以下の教員に担任されるかが、子供の将来を決める。

そんな馬鹿な、と思いたいだろう。その気持ちもわかる。普段、見下している小学校教員なんかに、我が子の将来がかかっている、なんて認めたくないだろう。

しかし、それが現実である。現実だと認めたくないのは、子供の人生は、結局、一回限りのやり直しのできないものだからだ。
すでに小学校時代が終わっているからだ。または、今さら担任の変更ができないからだ。

人生は残酷で、不公平なものである。
良い担任に当たらないからといって、良い担任が存在しないという証明にはならない。

これは恐ろしいことである。
担任の当たり外れは、運である。
宝くじと同じである。

宝くじに当たったからといって、必ずしも幸福を約束しない。しかし、小学校高学年のとき、当たりの担任に受け持ってもらえるならば、それは幸福を意味する。
げに恐るべきことである。
先生に感謝。涙涙である。