ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

プリントに頼る授業は最悪。音読のない授業は最低である。

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高校から小学校高学年に至るまで、相も変わらぬプリント地獄である。
授業では、子供は教科書とノートを持てばよい(ちなみにIPADの類など不要である)。教員は、教科書とチョーク1本で足るはずである。

それがどうだろう。教員は、プリントを山ほど刷って、子供に配る。

なーに、授業に自信がないからである。プリントを配って、書き込ませれば、あっという間に、時間が過ぎていく。それは子供にとっても安楽な選択であること、教員と一緒である。

 

も少し言うと。

近頃の子供は小学生から高校生に至るまで、プリントで学習することに慣れきってしまって、授業でプリントがあって当然と考えている。
プリントの内容たるや、穴埋めか誘導かのどちらかで、何も考えさせない、考えなくても、機械的にできるような代物である。またそうでなければ、子供が承知しない。できないのである。
白紙を渡して、ここにポイントを書け、学習内容の骨子を書け、当該問題に対処せよ、などと言い渡したところで、どこ吹く風、何をどうしていいかが、さっぱりわからないのである。

 

授業でのプリント万歳の悪習は、2000年ごろから顕著になって、数年後には、たちまち全国を席巻した。コピー機印刷機の大量普及で、プリントの簡易な作成が可能となって、蔓延したのである。教育出版業者の商売上の目論見で、プリントの元版があふれかえったこともある。教員の教養不足と、教授力が落ちたこともあり、プリントが教育活動の「王道」となったわけである。

 

プリントを使用した授業は、安直かつ浅薄で、子供に実力がつかない。にもかかわらず、なんとなく何か学習のようなものがあったかのごとき感覚を、教員も子供も、得られるのが取柄である。
これが流行らなくて、何が流行るだろう。双方めでたくニンマリである。


そういえば、平成の子は昭和の子に比べて、格段に音読が下手である。令和の時代にはどうなることだろう。

小学校から、音読をさせない学級が増えた。小学1年生ですら、プリントの穴埋めばかりで、国語の時間なのに、教科書を音読させない。
小学校高学年になっても、一文読み(句点まで読んで、次の子供に代わること)が精一杯で、段落ごとに読ませるとしどろもどろである。1ページまたは数ページを音読することのできる子供など、学年に数名いるかどうかである。

これはすべて、小学校教員の怠慢と不見識のなせる業である。音読の重要性がまったくわかってない、わかりたくない。指導が面倒なのである。プリントを渡して、穴埋めさせたほうが楽だからだ。

やれやれであるが、これが現実で、嘘だと思うなら、子供に、手近な本でも雑誌でも、声を出させて読ませてみたらいい。目の前の体たらくに、貴君は真っ青になるだろう。とはいえ、貴君自身が、すでに、音読が十分に「下手」だとしたら、何をかいわんや。

スマホをピコピコして、小さな画面を楽しんでいさえすれば、それで十分に満足である。親子ともども、手を取り合って、莞爾として笑うがいい。

 

音読指導はコツがある。しっかりと指導すれば、一週間で学級全員の音読力は、各段に向上し、授業も学級も、生まれ変わる。
などと書くと、そんな馬鹿なと言いたいだろうし、信じたくない気持ちもわからないではない。

せっかくだから、方法を伝授する。簡単である。次のごとし。

と言いたいところだが、言わない、言いたくない。


ケチで言わないのではなく、安直に真似させたくない。物真似ですむのなら、かつて、一部の教員間に流行った、法則化何とか運動と、同じになる。あれは、一時の流行で、未熟な教員のための「東京デートスポット」「彼女と行きたい店」「ぴあ」のごとく、安直な行動パンフレットのようなものだった。それでも無いよりはマシと、思いたいだろうが、そうでもない。
結局は簡易プリントに走った授業ごっこと同じになってしまう。

 

授業は、ひとり一人の教員が、自ら学んで経験して、持てる素養と見識と行動とで、行うべきもので、何も「名人芸」とやらの猿真似でもなければ、ああしなさいこうしなさい、とかの決まり言葉の連発でもない。
このあたりのことは、わかる人にはわかるだろう。

 

すでに書いたかもしれないが、再度言う。あなたが教員なら、今からでも遅くはない。露伴を読め、鴎外を読め。そこに音読の秘訣は山と書いてある。

それすら面倒くさがって、安直に音読力を高める方法を知ろうなんて、ちと甘すぎると云々。