ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

若い女性教員の悲哀。低学年は女性、高学年は男性の担任がいい。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

某人、つくづく述べたことには。

ーーーーー
女性教員だから、男性教員だからと、云々すると、性差別だとジェンダー論者から叱られそうである。
しかしながら、夏は暑く、梅雨時には雨が降るというように、至極当然の話をしたい。
もちろん、大体においての雑駁な話なので、例外は常にある。

小中学校での女性教員は厳しい立場だ。誰にとって厳しいかといえば、教員自身のほかに、肝心の子供や保護者にとっても、厳しいのである。辛いのである、苦しいのである。

子供の学校生活は、担任教員と密接な関係を持つ。
中学校では教科担任制だから、一人の生徒に多くの教員が関わるので、幸運なことに、担任の影響は、弱まる。
小学校は学級担任制で、ほとんどの教科を一人の教員が教えるから、担任の影響が大きい。大きすぎる。

担任教員が女性、特に若い女性だと、どんな変化が子供に出てくるだろうか。
落ち着かない、不安定、怠惰、退学、喧噪、不熱心、指示が通らない、子供自身が授業を心底楽しんでいないような感じがある。

これらは、以前からも、今も、指摘されている。特に高学年の5年生6年生に顕著である。

これは、表立っては言えないし、言っても詮無いことなので、タブーである。しかし、子供や親の落胆は隠せない。その反射として、教員自身が不安を感じて悩んで、ますます泥沼に入ることがある。

男性教員と女性教員との違いをどのように縮めるか、または逆転するか。性差を、感情豊かな指導上の利点として、子供に好影響を与えるには、どうすればいいのか。

教員個人の資質や努力や、または職業的慣れで解決するしかない。と答えるのも、一つではある。

男性教員にも色々ある。安定した若い女性教員のクラスもあれば、不安定な男性教員のクラスもある。
問題は、教員の個性や教授技術以外にもある。
どうも、難しい。人と人とのつながりには、相性がある。

であるのに関わらず、表向き平穏無事に過ぎているかのような学校生活は、結局のところ、子供自身の可塑性が大きく、子供が「観念」をしたことによって、担保されている。
担任の授業を毎時間、強制的に受けなければならない。常に不平不満を抱えていては、子供当人が持たない。子供は伸びようとする若芽、または雑草のようなものだから、環境の不具合不公平を、自分の頭から取り去ろうとする。または自然と乗り越える。
それはそれで生き物の知恵だが、いずれ、どこかに破綻が出る。

俯瞰して観察すると、破綻は歴然である。しかし、これは何度も言うようだが、タブーである。

小学校低学年の1年生2年生は女性がいい。特に問題行動をとる子供の多い、新入学1年生の学級を、ベテランの女性教員が担任すると、あら不思議、いい子ちゃんばかりになる。
家庭で味わえない母性愛が充足されるからか、その他の理由があるのかは、ケースによる。

一方、小学校高学年5年生6年生は男性がいい。若くてもベテランでも、それは教員の実力による。ともかく、男性教員の担任学級が、子供たちは安定する。逆に若い女性教員が高学年を担任すると、不安定なことが多い。
以上は体験的な事実を言っている。

学年の子供の半分は女性である。だから女性教員が必要というのは、現代のジェンダー感覚からしたら妙なことである。
男性ばかりの学年団で、一向にかまわない。現に、低学年の学年団は多く女性ばかりではないか。だったら、高学年は男性教員ばかりでいいのである。

ーーーーー

と、以上のような話である。
さて、女性だろうが男性だろうが、教員の実力と、直接の関係がない。教員の精神的安定感と教養と授業技量が問題なのだ。
そのどれが欠けても、不安定になる。

不安定になりやすいのは、いったいどのような要因か。性、年齢、のみならず、多くの偶然と要因とが左右する。やはり、人それぞれと言うしかない。

運である。