ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員の力量とは何か 教材を見通す能力

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教科書改訂のたびに、教科書会社の手引書は、ますます過熱して、余計なことを書きまくっている。

宿題を多めに出す教員は、保護者から受けがいい。実態にかかわらず、熱心な先生と呼ばれることが多かった。それに味をしめて、教員は授業下手をごまかすために、宿題に頼った。とはいえ、宿題だけで授業を構成できるわけもないから、授業では、どこからか写し取ってきたプリントを山盛りにして子供に配った。
何とも、ご苦労である。


教科書会社は、ある種の独占企業だから、談合で持ち周りをする。出る量が半端ないから、莫大な利益である。
教科書には、教員用に指導書解説書プリント集などが付録でついてくる。有料である。値段がバカ高いが、どうせ税金または経費で出るから、どんなに高くても、買う方は平気だし、売る方も当然と心得る。
さあ、その解説というか指導書というか、とんでもない代物で、教科書もゴミだが、指導書に至ってはクズである。
ともかく微細に、懇切丁寧といえば聞こえがいいが、ごたごたとあることないこと、ぐちゃぐちゃに書き連ねて、分厚いものにする。
都道府県の選択委員は、こりゃ丁寧に書かれとるわい云々で、選ぶ。教科書会社の思うつぼで、ニタニタ笑いが止まらない。

教員は鈍い頭で、それを真面目に読んでしまうから、さあ大変。馬鹿正直にもほどがあるが、いちばん迷惑するのは、あっちこっち引っ張りまわされる子供たちである。

 

そこで。
教員に求められ力は種々あるが、端的に言えば、教材を見通せることができるかどうか。
いったい何を、どうするために、どうやって教えるのがいいかは、教材を眺めた瞬間に、自然に思い浮かばなければならない。
料理と同じで、用意された食材を見れば、直ちに出来上がりが想像できるようでなければ、ならない。

先日、教員は、自らの中高生の時期に、学年で一番の成績を、大まけにまけても、学級でトップをとった経験が、絶対に必要だと述べたのは、定期試験ごときで、その対処法を間違え続けるようでは、駄目だという意味である。

試験も一種の頓智である。教科の全体像を見抜けなくても、子供なりに、学力試験の全体像はわかっているはずである。それに対処をすればいいのだから、中高6年間、最低でも30回から多くは100回以上、学内試験を経ている。なのに、一度もトップを取っていないようでは、人を教える職業には、つかないほうがいいだろう。

子供に配った教科書を見れば、対処法は、つまりは指導法は、直ちに見えてくる。そこに自分なりの工夫を加えてもよし、加えなくてもよし。目的に向かって、悠々と教えればいいことである。指導書解説書プリント集など、無用どころか、平凡教員の勉強不足に拍車をかけるだけで、百害あって一利なきゴミである。

これだけ言っても、わからないのなら、わからない方が幸せだろう。