日本には、教育のよりどころとなる宗教がない、などと言うと、人は急に不機嫌になる。
人は己の欲するものしか聞きたくない。
皆さんが大好きらしいNHKなる独占企業がそうで、受信契約を切られると大変だから、いつも視聴者の気分を損ねないように最大限の注意をはらう。
裏では、国民を侮蔑冷笑して、高給取りの選良気取りでいるくせに、表向きは、追従とごまかしの塊である。どうせGHQ育ちの、大衆操作部門である。素性が怪しいのは許すとしても、インテリぶるんじゃない。
知人が言うには、NHKのドル箱らしい「朝の連続テレビ小説」という番組のヒロインは、常に不美人を出す。朝昼夜のニュースの時間帯でも、司会者の男女はみな、日本人として不細工な部類に入るメンツである。
これらは、視聴者に、小さな優越感を与えるためである。
飛びきりの美男美女が得意げに画面に大写しになったら、視聴者はそっぽを向くだろう。
人は嫉妬する存在で、しかも気難しく、傲慢で、騙されやすく、常に何モノかを信じて、それに頼りたい存在である。
あなたも感じているように、日本の政治職業人が劣化しているのは事実だろう。まさに、事実を見たくないのである。災害でも戦争でも事故でも、起こってしまうと困ることは、起こらないことになっている。生じてはいけない事態は、生じないことにしているのである。
ごまかしであり、欺瞞である。無責任である。国民が税金で雇っている政治職業者が、この体たらくである。
しかしこれもまた、選挙民たる国民は許している。そういう風土だから仕方がないと言いたくはないが、おそらくそうだろう。お代官様である。御威光である。有難いのである。仲良しである。おもてなしである。
話を変える。楽しいことを書きたい。
日本の祭りである。
愉快で、興味深く、美しい祭りである。
それは、呉市吉浦町の吉浦祭、別名カニ祭りである。
半世紀以前、都会育ちの知人は、初めて吉浦祭に遭遇し、驚嘆した。
知人は、先日、偶然に「吉浦祭り」の動画を見て、幼少の感動が蘇ったそうである。
ちょうさいの宮上りを、長い階段の横から、手に汗して見た。左右に大きく揺れる太綱に弾かれて、見物の大人たちが何人も吹っ飛んだこと、笛の音と大人たちの酒の匂いと怒号などを、思い出した、と言う。
吉浦祭 ちょうさい宮上がり 2018年(1分)
ちょうさい、だんじり等 宮上がり宮下がり 2018年(2分)
登り切ったちょうさい 神社前のねり 2010年(7分)
動画3分あたりからは必見である。
吉浦祭をコンパクトにまとめた動画 2017年(19分)
ちょうさい、だんじり 宮下り 2011年(42分)
知人が言うには、今も昔も全然変わっていないとのことである。
いちいち動画を示したのは他でもない。
来年は吉浦町に行って、実際に見ようと、知人と約束したのである。
道徳も学びも、地域の大人と子供とがいっしょになって、協力して、楽しみとする行事の中に、何か大切なものが含まれているのだろう。