知人来たりて、また言う。
テレビ局及びテレビに巣食う芸人ども、ならびに、選挙で職を得たのをいいことにやりたい放題の議員職にある者ども。
彼ら彼女らにとっては、新型コロナウイルスとやらは、神であり仏であり救世主である。
これだけで、わかる人には、電光のごとくわかるだろう。
わからない、またはわかりたくない人にとっては、これ以上百万言費やしても無駄だろう。
「ぱるるの教育批評」は、扱うテーマが学校教育を主とする。
現場経験豊富な、というか、ほとんどそれしか取り柄のない筆者が、折に触れ思うこと、思い出したことを、ボケ防止に書いているのである。教え子の何人かは見ている。記事の内容に興味関係がある者、その他も見ている。
その中で、私が大嫌いなモノの一つは、教育評論家と称する類で、そもそも教育について話すのは、誰でもできることである。ことさらに教育評論家などと自称するとは、片腹痛い。
それがどうだろう。どうせテレビ芸人の類と笑って済ませてもいいが、世間は、肩書に弱い。事実または事実に近いものと勘違いする。
某尾木ママとやらの気持ちの悪いテレビ芸人も、局の方針に従うので都合がいいのだろう、いろいろ口走っているようだが、在野から学校教育についてあれこれ言うのは、素人以下の所業である。まして、テレビで食する者が気の利いた風を言うのは噴飯ものである。
どうせネットその他の情報を、血走った目で探し回って、さも自分の意見のように言う。
いかにも卑しいやり口だが、それがテレビマスコミで生きるということで、だから私は、テレビ業界およびその関係者を、心底憎むのである。
さて、コロナごっこである。
「コロナごっこ」は私の造語である。
新型コロナウイルスをめぐっての政府マスコミその他の対応が、まさに、子供の「ごっこ遊び」であって、内実のない「のようなもの」「かもしれないもの」「そう信じ込ませたいもの」を、さも事実であるかのように大袈裟に扱うことを、総称して「コロナごっこ」と言ったのである。
学校現場では、さすがにコロナごっこなどという言葉は使われていないし、使おうとしないし、許さない。そんな言葉が吐けるほどに、学校教育現場は、自由は保障されていない。残念でした。
三密だの社会的距離だの、不要不急、自粛、以後の世界、等々、言葉の乱用で、いったいこれは何のまじないなのだろうか、不気味である。
マスクも相変わらず流行だが、このモードは永遠に続くのだろうか。
小津安二郎の映画『東京暮色』の中で、家族を迎えに警察に行く場面で、原節子がどういう理由かマスクをしている。これが大方の男性ファンにはたまらなくエロいと話題になった。機会があれば見るといい。
以前のことだが、マスク嫌いのトランプ大統領が、マスクをつけていないことをマスコミに問われて、「他の部屋では、つけている。マスクをすると、もっと男前に見える」と真顔で答えていたが、それはそうだろう。
一般にマスクをすると、美男美女度が上がる。特に中高生はそうで、某教員に言わせると、廊下でマスク姿ではあるが、びっくりするようなイケメンとすれ違ったので、はてあんな生徒がいたかしらん、と怪訝だったが、なんのことはない、マスクを外してみれば、いつもの悪ガキだったそうな。
どうも暑さで、話があちこちしたが、もう少し書く。ただしすでに言ったような気もするのだが。
新型コロナウイルスという単語を発するときの、テレビ芸人(レポーター、司会者、口パク女に男、解説者=何を「解説」してくださるのだろう、有識者=これまた御大層な肩書である)たちの、嬉しそうな誇らしそうな、態度や顔つきを見よ。物干し竿で、まとめてなぎ倒してやりたい。
何度も言うようだが、コロナごっこは、政治屋にとっては大儲け、責任逃れ、検察追及をかわす手段となった。
マスコミ、特に、テレビは、視聴率が跳ね上がり、空前絶後の利益に、笑いが止まらない。
独占企業集団のNHKのごときは、視聴料は搾取するくせに、番組は過去のゴミテープを垂れ流す。
NHKこそが、まず人員削減をし、せめて令和2年は、視聴料を無料にすべきであろう。
話変わって、いわゆるGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)は、コロナ騒動で、これまた、ニッコリの集団である。
アマゾンは便利なので、まあよい。
アップル社の製品は丈夫なので、これもよかろう。
グーグルは普通に使用できる。
フェイスブックは危険なゴミである。もともとの出自が、美人学生の品定めのためにネットを利用するカラクリである。何がフェイスブックだ。自分の情報のほとんどを、喜んで外に出すなんて、どうかしている。
物事、特に人物は、一部または大部分を秘するから、花なのである。人となりを知りたければ、直接会うしかない。
ところで、ネットは匿名性が最重要である。
投稿者の情報開示の強制は、独裁政治に陥る危険が極めて高い。
選挙が投票者の記名制となってしまって、現政府の反対者は抹殺されるようになる。
あれもこれも、匿名性が必要であって、普段の消費財のすべてを、デジタルで決済するなんて、どこまで間抜けなんだろう。
スーパーで、スマホをかざして物品購入することが、それほどスマートなことであろうか。後ろで並ぶ他の客のことを考えろ。もたもたしすぎだ。
話を変える。
ほとんどの大学は、どうやら、「オンライン授業」とやらを、最低でも2021年3月まで続ける様子だ。大学の教員は、この1年間、対面授業を1時間もしなくても、基本給はもちろん、各種手当もばっちりゲットしている。もともと趣味と暇とで成り立っていた職種だが、こうなると、存在の軽さが、耐えられないほどになる。
もう、無駄な二流三流大学なんて、片っ端から潰せばいい。
学士修士は、昔で言うところの通信教育、今風ならネット講座で十分だ。
優秀な研究員だけを勤務させて、後はカリキュラムプログラムでよい。
しかし、キャンパスごっこもしたいだろうから、それは社会サークルの出番だろう。老若男女入り乱れて遊ぶがいい。単位はやるぞ。
また変える。
テレビマスコミは教育の敵、国民の敵、亡国の徒である。
テレビに負けない人間になれ、といったところで、家庭も親も、生まれたときからテレビ漬けである。当人の知らないうちに、テレビマスコミに飼いならされている。
もっとも、田中美智太郎先生がおっしゃったように、「時流に飼いならされるのではないかと、自ら不安をもつような弱い精神ならば、むしろ飼いならされた方が、君は幸せにだろう」云々。
ならば、従順可憐が特質とされている日本国民は、全員が、むしろテレビマスコミに騙されて、踊らされて、酔い続けていた方が幸せなのだろう。
今回の武漢コロナ、別名、何が新型なんだか「新型コロナウイルス感染騒動」について、マスコミの弊害は、はっきりと出たのである。
テレビが連日騒ぐと、国民の大部分は事実だと誤認する。
以前から、このブログを見るような奇特な人はご存じだろうが、コロナごっこは最初から怪しさ満載だった。
一体全体、武漢コロナが直接の原因で、人を死に至らしめるほどのものであるかが、一向にはっきりしない。
どうやら風邪の一種なのに、大騒ぎする。やたら、恐怖心をあおる。タレント医者もどきや、宣伝大好き知事その他のパファーマーの、連日の公演は、気味の悪いものだった。
目に見えないウイルスというゾンビ遊びは、商売の停止、学校の停止、人の動きや交流を禁止して、地球全体を覆う大イベントになった。
いやはや、困ったものである。
コロナごっこは、一部に莫大な利益をもたらして、その他大部分に、大きな損失を与えたのである。
狂ってる。本当に狂っている。
3月に日本の多くの学校が閉鎖されたとき、教員たちは戸惑うそぶりを見せながらも、本心では喜んでいた。
4月5月と長い有給休暇が続いて、教員たちは楽ができた。今でも、学校は変則的な再開中だが、やはりどちらかと言えば、去年に比べると、安楽椅子である。
以前話した繰り返しになったようだ。
コロナウイルス騒動で利を得るのはいったい誰だろうかと、考える授業を、一度はしてみるといい。