ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

運動会の指導で褒め上げる。教員の不気味な言葉と道徳不在、ついでに核なき世界。

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日本の教育に芯がないことは、誰でもが気付いていることだろう。
寄って立つ教育哲学がない。
あるのは、教育ビジネスによる実益である。

学校で教えている「道徳」は、常識の幼稚な例示に過ぎない。「人間だもの」の宣伝コピーである。

よりどころとなる宗教がない。ごときものはあるが、あれは祭りであり、年中行事であり、風習の一つである。他には、白人優位、有色人種劣位をねらうミッションの類である。
道徳がないのである。昔ながらの近隣関係だけは、少しはある。

さて、それでもこうして、多くの人々が、一見、安穏に生活できているのは、なぜだろうか。
一つには日本が、島国であるから。二つには、住民のほとんどが、日本人だからである。
状況が変われば、いったいどうなってしまうのやら、わからない。
混乱して、一挙に崩壊するのか、または、ゆっくりと滅んでいくのか。
前者は、体制の転換で、名実ともに外国政府の支配下におかれることである。後者は、日本国民が他の人種と混合し、日本人種がなくなることである。

その遠因は、教育に、特に小学校教育にある。
とまではいくらなんでも言いたくはない。教育に限らず、敗戦後の日本が、全体としてゆっくりと、日本解体へ向かっていることは、あなたもご存じだろう。

資源のない小さな島国は、鎖国するか、あるいは独自の外交路線を貫いて生きるしかない。
しかしながら、鎖国は不可能である。
再度、武力でこじ開けられるだろう。

外交路線も、到底、無理である。
日本は英国のごとき、頭脳も冷酷さも持ち合わせがない。ついでに言えば、外交において、最も有効な切り札の、核戦力すら持つことが許されていない。

ないない尽くしだが、日本人の勤勉さによって、現在までは、他国に利用されながら、そしてそのことのよってのみ、生き続けることができた。
運が良かった。
運はいずれ尽きるときが来る。さあ、どうする。

運か。そういえば、運動会である。9月にするのかと思えば、5月6月にする学校もある。ごくまれに10月にずれ込むこともある。

運動会で、教員が子供らに、集団での動きを指導する。その際の言葉遣いが異常である。
今風なのだろうか。気色が悪くなるほどに、甘い。哀願にも似て不気味である。
ことあるごとに、最上級の言葉で褒め上げる。決して叱らない。
おだてて甘やかす。あれでは子供が増長する。

教員がずるいのである。叱ることの緊張感が嫌で、叱らない。叱ると、親から、子供から、反発が出る恐れがある。それが何よりも嫌なのである。褒めてさえいれば、親子ともどもご満悦である。

せいぜい、「前にならえ」ができたぐらいで、
「よくできたね、すばらしいね、上手ですね、もう少し我慢してがんばってね、すごい、さすが高学年」

馬鹿馬鹿しくって聞いてはいられない。

では、こんどは「休め」ができたときにはなんといって褒めるのだろう。
あんなもの、できて当然である。

すぐに「ありがとう」「ごめんね」を連発するのもどうだろう。大の大人が、しかも指導する立場にある「教員」が、粗末な現代っ子(あなたもふだんご覧のとおり)に対して、使うべき言葉であるのかどうか?

子供は愚かで未熟なものだが、ものには程があるだろう。
子どもを愚かにしたのは、他でもない。我々大人が、節操なく誉めたからである。誉めるなら、誉めるに足る時にのみ、誉めてやるがいい。

教員は自信がない。だから卑怯にも、「ほめて育てる」、なんてコピーにかじりつく。
なーに、本気で叱るには、大変なパワーが必要だ。口先で褒めるのは、楽だからである。