ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

子供の問題行動を叱らない教員。心の教育、転落事故、歩留まりについて。

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人間は環境の動物であるという。確かに、子供は環境の動物である。

雨が降れば、教室でじっとしているべきなのに、そうではない。
ばたばたと廊下を走り回って遊んで、そのあげく、子供同士がぶつかって頭から血を出して、泣き叫ぶ。
それを大人(教員)は、しかりつけるかと思えば、そうしない。びくびくおどおどとして、子供のご機嫌をとりまくる。親には、申し訳ありません、と平身低頭する。
笑止である。

雨の日は、室内で静かにしておくしかない。大騒ぎしてならぬことは、躾のひとつであって、親が家庭で、我が子に教え込んでいなければならないことである。
それが、できてない。

自分の子どもに対して、最低限のルールすら教えることができないでいる。

子どもの生活上のことごとを、学校に押し付ける。これを「基本的生活習慣」というのだそうである。ご丁寧にも、それを「学校目標」とやらに掲げている学校がある。
ご苦労様。

親は、子供の不注意やわがままが原因で事故が起こると、学校に難癖つける。

近年、校舎から子供が時々転落するが、高いところからは、物は落ちるものだということくらい、いくら子供でも、わかりそうなものである。

足を踏み外す可能性のあるところに、いたずらや不注意で、自分から踏み込んで怪我をするのなら、するしかない。
それでも、まだ、学校のせいだと言うのか。
3階建てだから、2階建てだから悪いと言うのか。窓があるのが、けしからんと言うのか。
ついには、引力にさえ、難癖をつけかねない勢いである。


「心の教育」だとかで、とってつけたように、命の大切さだの、仲良くだの、と喧しい時期があった。
大方、関係者の保身だろう。何かアクションを起こしていないと、出世らしきものに響くという、姑息な判断から出たことである。相も変わらぬ役所流の発想である。

歩留まりという言葉がある。不良発生率である。
多くの部品の中には、不完全なものや具合のよろしくないもの、かすかな傷やほんの微量な狂いが、出てくることは仕方がない。

人間には、歩留まりはないのか。
残念ながらある。あることぐらい誰でも知っている。信じられないなら、自分で鏡を見よ。
だから、多くの中には、少しのきっかけで、犯罪的な行動に走る子供がいても、おかしくない。

それをなんだろう。マスコミと称する連中が、ちょっとした事故を、さも大げさに吹聴して、いたずらに危機感をあおる。商売だからと言え、愚劣である。

毎日、ほとんどの教室で殺人が起こっているのか。何百人も毎日死んでいるのか。

たまには不幸な出来事が起こる。子供の世界も大人の社会と同じである。むしろ、学校での、事故や事件が少なすぎるのが、不思議なくらいである。

子供や学校に関わる案件があれば、急にあわてふためいて、「心の教育」の類を声高に叫ぶ。

国の基本をないがしろにしているくせに、道徳の根幹である宗教的情操や国史を踏みつけにしているくせに、よくもまあ言えるものである。

ゲストティーチャーと称する高齢者や障害者を招いて、昔話をさせて、それで「心の教育」、一丁上がりである。
心とは、それほど、安直に「指導」できるものなのか。

躾に話を戻すと、叱ることに比べると、誉めることはうんと楽である。
大人同士の人間関係をみればいい。誰でも褒められれば悪い気はしない。言葉が滑って、急に怒り出す心配もない。

近頃の教員は、叱らない。その逆に、児童生徒を誉めてばかりいる。それも尋常に誉めるのではない。めったやたらに誉める。
最上級に誉めまくる。誉めるべき内容でもないのに、すぐに誉める。誉め言葉の大安売りである。
おかげで、未熟な子供に過ぎないくせに、ほんの少しのことでも、誉めてもらわないと機嫌が悪い。図々しく、ふてぶてしく、過大なナルシシズムが増長する。できもしないのに、何にでもでしゃばって、しかも誉めてもらって当然、という態度である。
教員は、叱らなければならない場面でも、安直に誉めてばかりなのである。
合掌。