ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

保身こそすべて、教員の処世術。台風や交通事故に過剰反応。

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メールを紹介する。小学校の保護者である。

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先日大きな台風が来て、市内の小中学校はすべて休校となった。
翌日、その保護者が所要で学校に行ったとき、校長に、
「昨日は先生方のお宅も大変だったでしょう」というと、
すかざず校長は
「いいえ、職員全員、朝から午後7時まで学校につめていましたから」と妙に力んで説明する。そんなことを聞くために、尋ねたのではない。

休校になった学校に教員が出てきたからといって、全然、自慢にならない。
児童生徒のいない学校は、学校ではない。さっさと帰って、自宅の周りでも点検するがよかろう。
第一、最初から学校に来るな。台風で、大して技術もありそうもない教員達が、校舎内にいなければならないほど、学校は脆弱なのか。
だとしたら、ふだんから危なくて、子どもを通わせられないだろう。台風の朝や夕方に、教員にちょろちょろされたら付近の交通の邪魔だ。

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どうしてこんなことになったのか。
自信がないのである。教育に自信がないのである。流行語で言うと、アイデンテティが揺らいでいるのである。
だから、ひたすら、一所懸命やらせていただいています、というポーズを示すことによって、自分を守るのである。哀れというより、愚かである。

その大元は、教育に骨がないからである。
骨とは何か。大きくいえば、道徳、つまりは愛国心の問題だろう。歴史ともいえる。
教員に日本国への愛国心というか、国という概念があれば、それを背負った「教員」である。誇りも出れば、背筋も通る。

戦後、シナやソ連ロシアやアメリカ他の作戦にまんまとやられて、日本は、骨抜きになった。今も変わらない。他国から見れば、これほど料理しやすい相手はいない。

道路も学校もこれほどお粗末なのに、近隣諸国をはじめ世界中に、金をたっぷりとくれてやってる。
諸外国は当然のように「受け取ってやろう」。それを元手に、日本への攻撃準備(必ずしも武力のみではない。経済文化教育すべて)をする有様だ。

お話もどって。
教員よ、ことさらに威張れとはいわないが、少なくとも卑下する存在ではないことを、自覚したらどうか。

内に威張って、外にはびくびくの校長たちは、あと少しで定年である。最後ぐらい、少しは、気骨を見せるかと思えば、ますますヒラメになる。もともと骨がないのか。とすれば、ヒラメですらない。


まだある。
以下は聞いた話である。

ーー

小学生が学校近くの歩道で、交通事故で不幸にも亡くなった。
痛ましい事故だが、その後の学校の様子が変わってしまったというのだ。

いまどきのことだから、当然のように、事故の原因を学校のせいにするメールなどが来たりする。校長は真っ青になって、あわてふためく。全校児童に黄色いハンカチを持たせ横断歩道を渡らせる。
教員は、ハンカチを持って渡った子どもの数を毎日調べて報告し、クラスごとのグラフにつける。全職員の車に、安全運転の巨大なステッカーを貼らせる。貼ったままかどうかを、毎日、校長が調べる。
全校児童に交通安全の類の作文を書かせて、地域に配る。
職員による朝の立ち番、放課後の巡回(それも車に巨大な「何々小学校 見回り」のステッカーをつけて)。
校長の口癖は「世間が見ている。」

ーー

そりゃそうだろ。世間が見ているのではない。校長自身が、世間体を気にしているのだ。職員の「犠牲的」な行為で、己の保身と対面とを守るのである。

だいたいが、事故と学校とは、なんの関係もない。すでに話したかもしれないが、通常の判断能力があれば、すべては、At Your Own Risk、自分の責任である。いきなり飛び出せば、車にぶつかることくらい、知るがいい。

学校長は、何よりもまず、保身に突っ走る。そうしてきたからこそ、校長になれた。校長として「適役」なのである。
教育事務所の諸君も、もちろんそうで、自分自身の責任を回避するこを職是とする。

事故は事故、学校は学校。教員は教員である。
少しは目を覚ましたらどうか。