ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

夏休みの学習課題。無理難題を押し付けられた子供が、哀れである。

 

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学校は、「よい授業」というキャッチフレーズが好きである。世間も、学校で教員が、よい授業を進めているだろうと思っている。
しかし、実際に期待通りに行われているところは少ない。物事が理想以下なのは普通にあることで、驚くに値しない。

よい授業でなければ、それは悪い授業で、効果がないどころか、害悪しかないはずなのに、教員も子供も平気である。当たり前のように学校に通って、夕方まで時間を潰すのは、そうするしかないからで、慣れっこになっているのである。

悪い授業でも、多少は学習の成果らしきものがあるのは、なぜだろう。
人間が生来持っている知識欲に助けられているからだろう。この作用がなければ、ぼんくら先生は、飯を食っていくことができない。

 

よい授業であるためには、次の三つが必要だ。
教材と教員と児童生徒学生である。
言いかえれば、学習課題と教授技量と学習者の能力である。

課題が、そもそも教員のレベルを超えていたら、教えることができない。子供のレベルを超えていてもダメである。子供の能力に適した課題があり、それを教えることが可能な教養知識技能のある教員がいる場合に、よい授業が成立する。

にもかかわらず、いわゆる進学校では、学習課題に、無理難題を押し付ける。教員自身が解けないような問題を平気で出す。

公立高校は、学校間の競争がある。生徒が国公立大学に多く進学できたら、学校職員は、特に校長は自慢である。公立有名進学校で退職できたなら、県下の二流どころの私立高校の校長に再就職できるかもしれない。うまくすれば、退職後10年、まずは安泰である。

 

公立校教員は、各方面から、能力以上の過剰な期待を背負わされて、もはや満身創痍である。
教員はすでに頑張っている。他から何も言われなくても、熱心に生徒を鍛えている。自分から夢中になるのである。
何のことはない。教員自身が、進学校に勤めていることが嬉しくて仕方がない。

商業高校や工業高校の教員は同じ公立でも格が落ちる。公立普通高校でも、進学校の教員と底辺校の教員では、位が違う。誰も表では言わないのに、本人たちがそう思っている。
生徒の成績に一喜一憂する。難関とされている国立大学に数人でも受かろうものなら、狂喜する。

と言えば、何だか良いことのようだが、そうでもない。もともと、教員にさほどの能力もないのに、生徒の潜在力も無視して、大学にねじ込もうなんて無理な相談である。生徒の中には、間違って当該高校に入ってきたような者もいる。

夏休みの課題に、身の丈に合わない大量のプリントや問題集を押し付けられた生徒こそ、再び哀れである。

 

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