ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

日本のシニアは不幸なのか。愉快な老後、これがまあ、終の棲家。

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海外で長く暮らした某人曰く。

 

どうして日本人のシニアは、不幸な顔つきに見えるのだろう。


早朝でも夕刻でも、苦虫つぶして、虚空を見つめ、散歩と称するよちよち歩き。お決まりの病院通い。わけのわからない70過ぎの手習い。別に働くでもなし、金もあり、時間は死ぬまでたっぷり、またはちょっぴりある。

だったら、毎日、なぜ遊び惚けないのだろう。
モノを買うでもなし、無聊な有様にて、繁華街を寂しげに徘徊するシニアの多いこと。
どうして、日本のシニアは不幸に見えすぎるのだろうか。

私は、12年、欧州及び米州に暮らした。そこで見たものは、老人の天国である。一瞬も無駄な時間をすごさない。時間の使い方が上手い。

笑い踊り、飲んで食べている。恋もする(だろう)。毎日が、釣りに、スポーツ、ガーデニング、会食、音楽、ダンス、車に、旅行等々、生活の多種多様の楽しみで、日々の生活を埋め尽くそうとする。

かつて、ルネ・デュボスが、「人間の真の不幸は、これからが楽しみだ、というときに死んでしまわなければならないこと」と言ったように記憶する。老人とは、人生の本当の快楽が、ようやく本格的に始まる時なのである。
時間、金、経験、教養のすべてを持っている。今こそ、人生を最大に楽しむことができなくて、何の生き甲斐だろう。何のために生きてきたのだろう。
老人を楽しませないような社会は、これは間違った悪い国家であり、遠からず滅びる民族である。

 

75歳の某人曰く、私は人生の3分の1を黒板を前にして座り、3分の1を黒板を背にして立ち、残りの3分の1を遊んで暮らした。

上記を、蛇足ながら説明する。
25歳までは学校で学んだ。26から50歳まで教員として働いた。残り25年は、自分がしたいことし、楽しみを優先して、愉快に暮らすのである、というほどのことである。

 これを実現しているのが、ヨーロッパでありアメリカである。
そんな馬鹿な、自分が見てきたことと違うぞ、と思うのなら、それは見る場所を間違えたのだ。
言うまでもないことだが、色々な階層に飛び込んで、付き合って、生活の中から、探ろうとしなければ、わからないことがある。

 

今の日本社会は、人を60歳まで働かせるのだから、退職後90歳まで遊んで暮らすことができる環境を、国家は用意しておかなければならない。
安心できる老後とは、こういう意味だ。
まして、70近くまで、いやそれ以上も、働く人がいる現状では、何をか、語るべき。

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先日、日本の学校の子供の顔付きが、不幸だと話した。

知人が言うには、子供よりも著しいどころか、比べようにもならないほどの暗い顔が、日本の老人である。
それは、西洋の老人の顔とあまりに違う。額に不幸の烙印が深く刻まれてある。
げにげに恐るべし。

 

 

少しく付け加えたい。

外国企業に勤めている若い友人が、一時帰国して、実家の母親の様子を見て、日本の社会保障制度に、いまさらながら感激した、と言う。

米国でどんな老人を見てきたのか知らぬが、千差万別、境遇の違いがある。公平に見て、日本の老人の生活が良いとは、到底思えない。

生活の根幹が、根本的に貧しいのである。

 

日本人は元来、勤勉でまじめで、よく働き、節約して貯蓄し、粗末な住居に堪え、やがて歳をとって一巻を閉じる。それまで、せいぜい、テレビ画面を見つめるのが楽しみである。

シニアの顔が不幸に見えるのも道理ではなかろうか。